大東市のだんじりちょいと見てみよう!《その1》

前回、前々回と、4月2日(日)に行われた『大東だんじり大集結』のお話を今月で締めようと思うのですが、最後はやっぱり、各だんじり本体を鑑賞してみようも思います。
とは言え、20台を越すだんじりが一同に揃いまして、それらが停止している時間帯にすべてをじっくり鑑賞する事は叶いませんでした。

まぁそりゃそうでしょ。
なので、ほんのごく一部ではありますが、見ていきましょうよ。
まずこちらは、中垣内のだんじり。

もう、いきなりええのが出てきたでしょ!
この大屋根正面の獅子。

もしかしたらこの日参加しただんじりの中では最も遠方から来ているのが、この中垣内ではないでしょうか?
大東市の南東の端に位置し、南隣は東大阪市の善根寺になります。

幕末から明治にかけて製作されたものとされていて彫師は《彫清》一門の手によるもの。
ここからは写真を見ながら話を進めて行きますよ。

さて、大東市のだんじりと言えばご存知『北河内型(讃良型)』と呼ばれるものが大半を占め、その彫物は主に屋根廻りを中心に『花鳥物』で埋められています。

中には見送り部分に三枚板の彫物を持つだんじりもありますが、多くは見送り部分は幕で覆う形が主流ですかね。

人物ものの彫物と言えば脇障子や勾欄合などに多く見かけ、『中国二十四孝』が最も多い題材ではないでしょうか?

土呂幕は基本的には彫物が組み込まれていますが、曳行時は『担い棒』が取り付けられますので、祭礼日に見に行っても、土呂幕の彫物を鑑賞するのは困難であります。

次のだんじり行きましょか。

寺川のだんじりです。
中垣内の隣村にあたり、こちらも幕末から明治にかけての製作で、彫師は《小松》一門と《相野》一門の手が入っているとされています。

話に戻りますよ。
こうした『北河内型』のだんじりの彫物の題材はほとんどが『花鳥物』なので、写真1枚1枚に説明は不要と思い、写真をご紹介しながら話を進めて行きますけど、これら『北河内型』のだんじりは、特に大工の名前が不詳のものが大半を占めます。

というのも、これらのだんじりが製作された年代は幕末から明治にかけてであり、その当時、大工が一人一人その名を刻むことは稀であった様なのです。

この『北河内型』特に『讃良型』とも呼ばれる形式のだんじりは、今ご紹介している中垣内と寺川といった地域、すなわち『東高野街道』に面して栄えた地域を『讃良郡』と言うのですが、この讃良郡にひとつの大工組織があった様で、それらの総称として、『讃良郡の大工組』と呼んだそうなのです。

写真のだんじり変わりまして、こちらは野崎第一のだんじり。

『北河内型』の中でも特に古く、天保時代の作だそうで、彫師は《相野》一門とされています。

この野崎第一のだんじりも大工は不詳となっていますが、おそらく『讃良郡の大工』によって製作されたものであろうと思われます。
隣接する四條畷や寝屋川あたりにかけて、同じ様な年代に『北河内型(讃良型)』のだんじりが量産されています。

ちなみに、四條畷市の木間のだんじりの大工は《木間村の大工》とされ、同じく四條畷市の雁屋のだんじりの大工は《田中重太郎》となっていますが、それらの大工も、流れはこの『讃良郡の大工組』でありましょう。

『北河内型』のだんじりは普段なかなか祭礼日に目にする事も少ないので、こうした機会は貴重であります。

次回もう1回、それらのだんじりを見て行きましょう。
(次回に続く)
<<前の記事 | 次の記事>> |