大東市のだんじりちょいと見てみよう!《その2》

長らく続いて来ました北河内は大東市のだんじりのお話は、今回で一旦締めくくります。
前回から、『大東だんじり大集結』に参加しただんじりを一部ですが鑑賞しながら、お話を進めております。
今回見て行くだんじり、まずはこちら!

赤井のだんじりです。
南郷地区のだんじりで、JR住道駅の北西側の地域になります。
こちらは明治14年の製作とされ、彫師は《彫清》一門。

前回はこの『北河内型』のだんじりを製作した大工についてお話しましたが、今回は彫師についてちょいと触れてみましょうかね?

この赤井のだんじりについては《彫清》一門の作品とされていますが、これらのだんじりが製作された幕末から明治にかけて、大阪で活躍していた彫師の一門の中でも、特に《彫清》《相野》《小松》といった一門が多く関わっている様であります。

そこへ《服部》《辻田》《彫又》といった一門も関わっている様なのですが、おそらく中心となって発注から請け負っていたのは前述した三つの一門が多かった様であります。

だんじり変わりましてこちらは東諸福。

こちらの彫師も《彫清》二代目・柳原清兵衛とされ、獅噛みなどを見て頂くと、《彫清》の特徴が感じられるのではないでしょうか?

『北河内型』特にこの『讃良型』に共通しているのは、彫物の題材と配置であります。

その多くは、正面の車板に龍が彫られ、後面の車板に唐獅子が彫られている部分が圧倒的で、例外を探す方が大変ではないでしょうか。

それだけに、それら龍と唐獅子を見れば、彫師一門のの違いがよく分かると思いきや・・・
案外似通っていて、ワタクシごときではその見分けはまだまだつきません。

さてだんじり変わりまして、こちらは新田東。

こちらも天保時代の製作と言われる古いだんじりで、彫師は《相野》一門の手によるものなのですが、明治期に改修が施され、改修彫師は《彫又》一門・西岡弥三郎と、さらに高松彦四郎が加わっているというもの。

屋根廻りなどの彫物は元々と思われ、かなりの年代物に見えます。

そしてこの新田東のだんじりには三枚板と隅障子があり、それらが、明治期の改修で付け加えられた部材なのでしょう。
確かに三枚板は西岡の雰囲気ありますね。

という事は、こちら脇障子が高松彦四郎の手によるもの?

《彫清》や《相野》や《小松》といった大阪の一門とは、やはりひと味違った作風の彫物が、この古いだんじりの屋形を飾っています。

ちなみにこれらの写真は別の日に撮影させてもらったものを使用しています。
さぁ、お時間が限られておりまして、集まったすべてのだんじりを鑑賞するには至りませんでしたが、また何かの機会に他のだんじりも拝ませてもらいたいと願うばかりです。
あと、この日にじっくり鑑賞出来なかったのですが、この氷野のだんじりは、また機会があれば是非とも鑑賞させて頂きたい1台です。

改めまして、実現の難しかった『北河内型』のだんじりを一同に集めることに尽力された皆様の努力には、脱帽の思いであります。

またいつか、この様な機会な訪れますよう願いつつ、4回にわたってお送りして来た『大東だんじり大集結』の話題を締めたいと思います。
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