茶屋のだんぢり漫遊録

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天神祭の日に遠き浪速の歴史を思う




昨日と今日は『天神祭』。



日本三大祭のひとつに数えられる、『浪速っ子の祭』と言われますが、『だんじり』が主役の祭か?・・・と言われれば少々違うので、当サイトではそんなに大きく扱った事のない祭礼です。

昨年、一昨年と、ご縁あってワタクシが『地車講』の曳き手として参加させて頂く機会を得まして、その時にはその『体験記』をブログにて公開させていただきました。



しかしまぁ今年はその枠からも外れまして、今年の天神祭はワタクシは家でデスクワークに勤しんでおります。


まぁ、言ってしまえば色々と『ややこしい祭』でありますよ・・・

まず祭礼を行う組織がね、一般的な『だんじり祭』を行う組織とはまったく違います。

天神祭にかかわる、『講社』と呼ばれる、いわゆる『講組織』とは何なのか?・・・そこから理解をして行かねばなりません。




『だんじり』をはじめとする各地域の祭礼のように、地域住民が集まって保存会や青年団を組織して行う祭礼とはまったく違う性質がそこにはあります。

つまり、祭礼への『参加資格』そのものが違うのです。



そそには、『大都会』の祭という側面がありありと出ています。



大阪天満宮を拠点とする界隈は、いわゆる『勤め人』の町であります。

そこに住まう住人よりも、お仕事のためにその地に赴く人たちで溢れかえる町なのです。

そんな地域の祭礼となると、地域住民による組織ではなく、お仕事で来ている人たちによる組織によって祭礼が執り行われる事になります。

それが『講社』と呼ばれる組織なのですね。

そういう組織の場合、参加資格は何かというと、ズバリ!『コネ』であります。




つまり、『仕事やビジネスを通した人との繋がり』です。


天神祭のどこかの『講』に参加しているAさんが、同じ職場のBさんに対して
『ワシ、天神祭でなぁ、○○講っていう講の世話人しとるんやけど、何人か人手が欲しいんや。今年の天神祭、うちの講に参加せえへんか?』
という話を持ちかけます。

Bさんは特に祭の経験者でもなく、地域に祭がある訳でもないのですが、同じ職場の人に誘われ、参加を約束します。
するとAさんは
『ほなB君、アンタの友達で誰か行きたい言う人居てないか?居てたら2人ほど呼んだってや!』
と言い、こうしてAさん繋がりで3名の参加者を調達します。

どこの『講社』もそうではありませんが、だいたいはこんな調子で、天神祭の『講社』への参加者は集められているのです。

かく言うワタクシも、昨年、一昨年はこれと似たような経緯で、いわゆる誰かの繋がりで呼んで頂き、『地車講』の曳き手として陸渡御に参加し、夜は船に乗り換えて船渡御を堪能させて頂きました。




『天神祭』とは、そういうものなのです。

我々が愛してやまない『だんじり祭』を行う組織とは、性質が違うようです。

モチロン、良し悪しや好き嫌いを論じている訳ではありませんよ。
性質の違いを述べています。


このブログでも、またこの春に幕を閉じた『だんじりeo SE』のブログでも、この『天神祭』の講組織については紐解いて来たと思います。

でも、ワタクシ自身がまだまだ理解しきれていない事もあり、論じきれていないのも確かなのです。


とはいえ、『天神祭』は浪速文化(上方文化)の集合体であり、『だんじり』と呼ばれる祭礼文化の源流も、ワタクシは『天神祭』に見出している一人なので、もっともっと調べて理解を深めたいと思っているのですが、その道のりはなかなか困難であります。




そもそも、『だんじり文化』とは何か?・・・という所から掘り下げてゆく作業から入らねばなりません。

しかもそれは、『諸説あるが確証はない』という類いのものばかりで、あくまで仮説と推察の域を出ないのが実情なのであります。

そんな中でも、自分なりの調査や集めた資料などから仮説を立て、推察を繰り広げてゆかねばならないのです。

これはワタクシ自身が、もしこの先、この『だんじりブログ』のお役目を卒業する事があったとしても、その先も継続して行なってゆく事だろうと思っています。


今現在、ワタクシが立てている仮説と推察はこうです。

『だんじり』という祭礼文化は、元は神様に奉納する『芸能』にその源流があると思われ、その『芸能』を行う舞台に、やがて屋根がつき、車輪がつき、あちこちへ移動しながら芸能を披露して回った『移動式舞台』が『だんじり』の起こりであろうと考えています。



その場所が、まだ大坂城すら築城される前の、まだ大坂が『浪速』と呼ばれていた頃から、その芸能(お囃子)の原形は存在していたと思うのです。

その当時、現在の大阪城のある場所には『石山本願寺』があり、現在の『難波宮跡』近辺に『生魂神社』や『高津宮』があったとされています。

秀吉による大坂城の築城に際して生魂神社や高津宮は現在の場所に遷座されたとなっていますが、もとよりこれらの神社は高貴な祀り事を行う宮であった事を思うと、民衆による祭礼文化は起こりにくいと考えられ、その時代から民衆による文化の奉納が行われていた場所・・・



すなわちそれが現在の『天満宮』界隈であろうと考えるのです。


『天神祭』は天暦3年(949年)に大阪天満宮が創建されてから程なく始まったとされ、以来一千年ほどの歴史があります。

その歴史のどの辺でこうした民衆による祭礼文化が起こったかは定かではないのですが、おそらく京都の祇園祭において、鋳物(鉦)によるお囃子が根付いた頃には、それが浪速にも伝わったのではないかと思われます。


天正11年(1583年)から慶長3年(1598年)にかけて、秀吉による大坂城の築城が始まると、その石垣に使用する大きな石を運ぶのに、多くの民衆が駆り出される事となります。

その時に、台車に載せた石を運ぶ際、曳き手の息を合わせるのに用いられたのが、現在の『天神囃子』の原形であるとされ、『天神祭』において奉納されていたお囃子がそれに用いされた、もしくは、曳き手の息を合わせるために多少アレンジされたは定かではありませんが、現在の『ヂキヂンコンコン系』のお囃子の『道中囃子』と呼ばれる部分が、まさにそれだったのではないかと思うのです。

この長年にわたる大坂城の築城により、天神囃子が広く大阪中に広まる事となります。

大坂城の完成を祝う時に、民衆は石を運ぶのに使った台車に群がり、お囃子を打ち鳴らしながら曳き回したといわれています。



これが、のちのちに『お囃子を打ち鳴らしながらだんじりを曳き回す』という、だんじり祭の基本スタイルの発祥なのではないかとかんがえるのです。


そして、こうして礎を築いてきた『だんじり』という祭礼文化が一気に花開くのが、今も天神祭に80台ものだんじりが夜を徹して宮入りしたと言われる『元禄時代』なのではないでしょうか?




ずいぶん長くなりましたが、あくまでこれは仮説であり推察の域を出ません。

これ以外に諸説あるのも確かです。


しかしまぁ、大阪における祭礼文化の発祥を紐解くに、有力な説であることは疑いないと思っています。


今年は関わらないと決めた天神祭の日に、遠い浪速の歴史を思うひとときでありました。


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