茶屋のだんぢり漫遊録

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泉穴師神社の宮本として…

 


2週連続の土日台風、そして3週連続の土日雨が過ぎ去って行きました。

一週間延期されていた東大阪市は稲田八幡神社の秋祭も、土日通しての雨に祟られましたが、夜には雨も上がり、最後のパレードは盛大に行われた模様です。


さて前回、泉大津市は穴師地区の豊中町の新調だんじりについて、その入魂式の模様を中心にお届けしましたが、その中で、
『豊中町は泉穴師神社の宮本である意匠を取り入れた細工がなされている』
と触れました。



今回はその事について、もうちょっと掘り下げた内容でお送りしたいと思います。


まずこの写真からご覧頂きましょうか。



大屋根の後ろ側のことを『主後(おもあと)』と呼びますが、この『主後』の懸魚が、通常のだんじりの懸魚とは違った彫り方をされている事にお気づき頂けるかと思います。

ちなみに大屋根正面の懸魚はこんな感じ。



それに比べて明らかに違った形状に彫られているこちらの懸魚は、氏神である泉穴師神社の拝殿の懸魚を模したものになっています。




そして、その懸魚の下に位置する『主後』の枡合には、『楠木正成の泉穴師神社参詣』の場面が彫り込まれています。



これは、1331年(元弘元年)に楠木正成が挙兵した際に泉穴師神社に立ち寄り、国家安寧、戦勝を祈願し、石燈籠を奉納された故事を取り入れたもの。



枡合の彫物には拝礼する楠木正成の後ろ姿が見て取れますが、裏面には、ちゃんと楠木正成の顔も彫ってあります。




余談ですが、この泉穴師神社の拝殿の前に鳥居が二つ並んで立っていますが、これは泉穴師神社の本殿が『並び社殿』と言って、二つの御祭神をお祀りするために同じ形の社殿を並べて建造されてある事に由来します。

つまり、二つの鳥居の向こう側に、それぞれの御祭神が鎮座している事になるのです。



さて、豊中町の新調だんじりの小屋根下に目を移すと、『旗台』には泉穴師神社の正面入口にある太鼓橋が彫られています。



大屋根『主後』の懸命、その下の枡合から視線を下ろして来るとこの『旗台』の太鼓橋に繋がる事で、泉穴師神社を参道から見た風景を表現している形になります。


豊中町の新調だんじりに細工された、泉穴師神社の宮本である意匠はまだあります。

小屋根の下から後ろへ伸びる『摺り出し鼻』には、この泉穴師神社で古来より行われている『飯之山神事』の様子が彫り込まれてあります。



この『飯之山神事』は、毎年10月に行われる穴師地区のだんじり祭の、二日目の午後から行われる一大行事です。



豊中町に先駆けて一昨年に完成した同じ穴師地区の我孫子の新調だんじりにも、この『飯之山神事』の御神幸の様子が彫り込まれていますが、豊中町の新調だんじりには、『飯之山神事』に向けて行われる『しつらえ事』の様子が彫り込まれてあります。




これは、聖武天皇の時代(740年頃)に凶作が続いた折に、村人が台に米を持って祈った結果、雨が降って方策に恵まれた事を機に始まった神事。

代々、豊中町の中にある六つの『字』が持ち回りで行う伝統行事なのです。



祭礼本宮の午前0時から二斗二升の米を蒸し、『飯之山』を作って神前にお供えします。
豊中町が管理する『飯之山』のだんじりは、この『飯之山神事』専用のだんじりです。



この『飯之山』を供えたのち、御旅所までの御神幸に、穴師地区の4台のだんじりもお供をするのが、ここ穴師地区の祭礼の最も大切な神事なのです。



豊中町の新調だんじりの『摺り出し鼻』には、まさに豊中町が古来から受け持ってきた『飯之山』をしつらえる様子が彫り込まれています。





近年の新調だんじりでは、彫物としてはメインとなる腰廻りや見送りといった、いわゆる『軍記物』とは違う部分に、こうした『その町ならではの意匠』を彫り込まれるケースはよくあります。

そうしたその町のこだわりを見るのも、だんじり本体を鑑賞する大切な部分となります。
また他のだんじりのそうした部分をご紹介する機会もある事でしょう。





今回は豊中町の新調だんじりの、泉穴師神社の宮本としてのこだわりをご紹介しました。

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