茶屋のだんぢり漫遊録

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馬場之町、その無事故の歴史に幕

 


しばらくブログの更新が空いてしまいました。
前回、『だんじりin大阪城』のリポートをお届けしましたが、それを最後に大掛かりな『だんじり行事』はすっかり鳴りを潜めてしまいまして、今年は気候と相俟って『冬の訪れ』が早いですね。


その後もちょくちょくとだんじり的な催事はあるのですが、今回はまだ触れていない行事ごとから振り返ってみたいと思います。




10月29日(日)に行われた、和泉市は府中地区の馬場之町の昇魂式でございます。

この日は午前6時に町内を出発したのですが、この時期になると午前6時ってのはまだ夜が明け切ってないんですな。



さらにこの日は先週の土日に引き続いてまたまた台風が接近しておりまして、土日を通しての雨予報だったんですが、このお別れ曳行の時間帯は小康状態で、雨が止んでる時間帯もありました。
てゆーか、ほぼ降ってない状態だったと思います。

この日で役目を終えるだんじりに、空の神様も粋な計らいをしてくれます。




来年、新調完成が予定されている泉州地方での『岸和田型』だんじりはここ、馬場之町という事もあってか、『昇魂式』に伴う曳行もこの馬場之町のみとなります。


では当日の写真を追いながらお話を展開して参りましょうかね。


このだんじりは昭和3年に岸和田市は内畑町の一字(辻堂とみられる)から購入したもので、昭和58年に大工《池内工務店》池内福次郎 棟梁の手によりほぼ新調同様の大改修を行い、そのため、製作年代や当時の大工、彫師が伺い知れないだんじりであります。



昭和58年当時の改修時の彫師は木下賢治、木下頼定、十場裕次郎 各師によるもので、新調当時の彫物はほぼ残ってない状態なのだそうです。



さて昇魂式当日のお別れ曳行は、ひとまずJR阪和線の踏切を海側へ越えて、東豊中町との境目あたりまで曳行しました。



この辺、泉大津市との境界にあたり、祭礼日には豊中町のだんじりはやって来ますが、府中地区のだんじりがJR阪和線よりも海側地域へ入って行くのは珍しい事であると思われます。


再びJR阪和線の踏切を越えて山側へと戻って来てからは、いよいよ別れを惜しみながらの遣り廻しへと移行します。



ただいま再開発の著しい和泉府中駅前一帯を、所狭しの曳行して回ります。



現在は『和泉だんじり大連合』のパレードコースとして広く知られる様になった和泉府中駅前付近ですが、もとは府中地区の曳行コースであります。

府中五ケ村を南之町から順番に回ります。



小社之町から東泉寺町、市辺町まで回ってからは、府道30号線(通称13号線)から駅前へと向きを変える『府中センター』と呼ばれる交差点を、この日は左右から1回ずつ遣り廻しを披露。




昭和から平成へと入り、『和泉大連合パレード』も定着してゆく過程の中で、和泉市内のだんじりも次々と新調、大型化が進められて行きました。

いつしか馬場之町ぐらいの大きさのだんじりはその役目を終える運命なのは定められていたのかも知れませんが、そうした中でスピード化が進み、速い遣り廻しを求める時代の中にあっても、この馬場之町のだんじりは、おそらく転倒事故ナシで今日の日を迎えたと思います。



遣り廻し中に大きく傾いたなんて事も、ワタクシの記憶にはないなぁ。

スピード化の波の中で活躍してきただんじりの中で、転倒事故ゼロでその役目を終えるだんじりは、本当に貴重な存在でありましょう。




さて午前8時半頃まで府中地区全域を駆け抜けただんじりは、やがて氏神である『和泉井上神社』にて昇魂の時を迎えました。



ここ『和泉井上神社』も、いま『氏神』と表記しましたが、厳密に府中地区の氏神は『和泉神社』と『市邉天神社』であったとされ、現在の神社裏にある東泉寺町と市辺町の地車小屋のある付近に鎮座していたそう。

1605年、豊臣秀頼によって和泉井上神社が再建された折、それらの神社も合祀された事で、和泉井上神社に宮入りする様になったとか。


いずれにせよ、長にわたり活躍した馬場之町のだんじりの労をねぎらい、また別れを惜しみながら、来年完成する新調だんじりに期待したいところです。



新調だんじりは只今、《地車製作 隆匠》にて製作中
《木彫 高濱》高濱輝夫 師を責任者に、この春に高濱 師から独立し、《木彫 森下》の看板を掲げた森下哲也 師による彫物が華を添えます。




この新調だんじりのお目見えを楽しみにしつつ、今回はここまでにします。


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