茶屋のだんぢり漫遊録

目次

八尾市のだんじりについてはあまり触れた事がないなぁ・・・




12月に入りまして早くも1週間が経過しまして、世間はぼちぼちクリスマス・モード。


先月の初旬をもって完全に終了したと思われていた『だんじり行事』も、今月に入ってちらほら見受けられるのですが、ブログの方はそんな季節感とは全く無縁な、独自の時間の流れの中でお話を進めていこうと思うのですが・・・




こちらの写真は当社の撮影スタッフより提供されたものでワタクシ自身が足を運んだ現場ではないのですが、八尾市西郡のだんじりの宮入りの模様です。



前回のブログでお届けした、東大阪市は稲田地区のパレード度と同じく、10月29日(日)の夜に行われていたものです。



稲田地区は本来の祭礼日から一週間延期しての開催でしたが、こちら西郡の氏神である『西郡天神社』の秋祭は、例年通り10月の最終土日に行われておりまして、今年は10月28日(土)・29日(日)の両日にわたり行われていました。



ワタクシ自身、なかなか八尾市の祭礼に足を運ぶ機会が稀でありまして、このブログでも殆ど扱った事がございません。


昨年は、当サイトでもまだ正式には掲載していない『太田地区』の祭礼をご紹介したまでにとどまっております。





八尾市内の祭礼というと、現存数で言えば だんじりよりも太鼓台の方が上回っており、八尾市内で『だんじり』と言えば、郡川のだんじりで知られる玉祖神社に4台の現存がある他は、ここ西郡と南老原、そして太田地区などに『点在』という表現が適切と思われるぐらいであり、八尾市内はまぁ、『だんじり』よりも『太鼓台文化圏』と申し上げた方がしっくり来るかも知れません。




当ブログでも、なかなかスポットの当たる事の少ない地域ではありますが、ここ西郡のだんじりはと言うと、掘り下げてみるとこれが地域の歴史もだんじりの歴史も奥深いものでありまして、どちらから掘り下げていく行けばいいのやら・・・と思案してしまうぐらいです。



せっかく夜の宮入り時の写真を紹介しながらのお話なのでまずは だんじり本体のお話をしてゆきますが、こちらのだんじりは堺市・美福連合にその名を連ねる、野々井の先代だんじりであります。




野々井のだんじりと言えば、ワタクシここ数年ずっと試験曳きを拝見しているご縁のあるだんじりなのですが、岸和田市の神須屋町から現だんじり購入に伴い、平成19年に西郡が購入し、現在に至ります。




当サイトの各町だんじり紹介のページには、製作年代は幕末から明治初期大工は不詳とされていますが、一説には堺の金田村の河村新吾とも言われています。



彫物は《彫又》一門の手によるものであります。


もとは『出人形式板勾欄住吉型』であったのを、現在では擬宝珠勾欄に改められています。



この写真が撮影された10月29日(日)は前回のブログでも触れた通り台風接近の日でありまして、宵宮の土曜日から日曜日の日中いっぱいまで激しい雨に祟られていました。

夜になりようやく雨が上がり、夜の宮入りはお天気に恵まれたのでありました。




ここ西郡の地域は八尾市に属しますが、東大阪市の若江鏡神社からそのまま南に進んできた場所にあり、『旧・若江郡』に属します。

そのため、だんじり曳行の姿もかつては若江地区の祭礼に近いものだった様ですが、現在は『天神囃子』とも呼ばれる『大阪系』ヂキヂンコンコンのお囃子を用いた祭礼を行なっています。



これは、この地域の人の中で、『天神囃子』を行う地域の祭礼に参加した人達が学んで取り入れたもので、昔から伝統的にこのお囃子だった訳ではないという事です。




またこの西郡には、『大坂冬の陣、夏の陣』で活躍・戦死した木村長門守重成の墓を囲う『木村公園』があり、歴史的に紐解いていみても面白いものがあります。

またそういうお話に触れてみるのも興味深いでしょうね。



では今回はここまで・・・


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