信濃屋、幼少期を語る・・・《其之壱》

12月に入りまして、ちょいと体調を崩してましてブログがご無沙汰になっていました。
気づけば12月も後半に入り、今年も残すところあと10日ほどになっております。
さてブログの方を再開して参りましょう。
だいぶ月日を遡るのですが・・・
11月3日(木祝)
ひとつのだんじり行事が行われました。

大阪市生野区・勝五のだんじりの昇魂式でございます。

写真からも分かる通り『さよなら曳行』と銘打たれたこの日の曳行は、いかにこのだんじりがこの地域で長年にわたり愛され、大切にされてきたかを表していると思います。
この勝五のだんじりの昇魂式の写真をご紹介しながら、ワタクシ信濃屋自身のエピソードも絡めてお話を進めていこうと思いまして、このようなタイトルになっております。
そして普段のブログとはちょいと文体が変わり、敬語調ではなくなることを、あらかじめご了承いただけますよう、お願い致します。
それでは、ちょいと数回に分けて展開されるとお話の・・・
♬ あ、始まり、始まりぃ〜♬
平成29年11月3日(木祝)・・・
大阪市生野区のとある地域で、だんじりの昇魂式が行われた。
そのだんじりの名は『勝五』

聞き慣れない地域名だが、このだんじりの現在の所在地、『勝山北五丁目』を縮めた名称である。
生野区には現在16台のだんじりが現存し、うち15台が現役で活躍しているが、その多くは現在の地名ではなく、旧の村名を名乗っている。
ここ、『勝五』の旧村名は『小路』なのだが、今現在このだんじりを『小路』と呼ぶ人はほとんど居ない。

現在の生野区では、清見原神社の氏地の中でも旧・大友村、片江村、腹見村、そして大瀬村の一部を『小路地区』と呼び、清見原神社に隣接する小学校が『小路小学校』、そして昭和の終わり頃に地下鉄『小路駅』が出来たため、生野区で『小路』と言えば、今はこの地域のことを言う。
従って現在の『勝五』のだんじりの地域を『小路』と呼ぶ人は、よっぽどの長老格の人しか居ない。

現在の名称である『勝山』の地名は、隣接する『御勝山古墳(おかちやまこふん)』から派生した地名で、もとは『大小橋命(オオバセノミコト)』の墓であったとされる小高い丘を、この土地の先住民が古墳とは知らずに『岡山』と呼び暮らして居たのを、『大坂冬の陣』において徳川秀忠が陣を張り、勝利したことを機に『岡山』を『御勝山』と名付けたことに由来する。
近世に入り、やがてこの小高い丘を古墳とは知らずに行政が道路を開通させた。
これが現在の生野区の中央を東西に貫く『勝山通り』であり、この道路開通により、古墳としての由来を知る鍵となる埋葬品などはすべて廃棄されてしまったと聞く。
何はともあれ、この『勝山通り』を境に北側を勝山北、南側を勝山南という地名が制定され、現在に至る。

『勝五』のだんじりをなぜ旧村名の『小路』と呼ばないのか、その理由はこのだんじりが昭和50年頃まで曳行されない時期があった事も影響している。
つまり昭和50年代にだんじりを復活させるにあたり、運営する保存会を再結成した際、その名称を旧村名ではなく、『勝山北五丁目地車保存会』とした事により、それを縮めて『勝五』と呼ぶようになった。
ちなみに、毎年10月に行われる『生野まつり』では、このだんじりが会場に入場して来た際、放送では『勝山北五地車保存会』と紹介されている。

実は、ワタクシ信濃屋は大阪市生野区の生まれ育ちであり、幼少期は『勝五』に隣接する『鶴橋』のだんじりを曳いて育った。
寅さんが『帝釈天に産湯を浸かり』なら、ワタクシ信濃屋は『鶴橋のだんじりに産湯を浸かった』のである。

そんなワタクシなので、この勝五のだんじりとも5歳の時に出会っている。
昭和53年の『生野まつり』である。
(次回に続く)
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