信濃屋、幼少期を語る・・・《其之弐》

前回からの続きで、生野区は『勝五』のだんじりに、ワタクシ信濃屋の幼少期の話を織り交ぜて敬語調ではなく展開中。

昭和53年の『生野まつり』から話を再開。
信濃屋、まだ幼稚園。
当時の『生野まつり』は、まだ現在の『巽公園』のグラウンドではなく、『生野区民広場』(現・舎利寺中央公園)で行われていた。

この事実を知っている人も、今となってはワタクシの世代から上であろう。
場所は大池橋交差点の南西、アエバ病院の南側に、生野防災センター(現在は図書館のみの建物)が建つ場所があるが、それが元々の『生野区民広場』だった。
年に一度、10月に『生野まつり』を行うためだけの場所で、それを象徴するかのように、グラウンドの真ん中を東西にアスファルトが敷かれていて、だんじりを並べるための白線まで引かれていた。
そのアスファルトがあるために野球やサッカーにも向かない場所で、本当に『生野まつり』のためだけの場所だったようだ。

ここに『生野防災センター』が建設される事を機に、『生野まつり』の会場は昭和57年に現在の『巽公園』に移転する事になる。
その移転した年の『生野まつり』で、会場に一番で入場したのも、この『勝五』のだんじりだった。
そんな事まで覚えている。
幼少期のワタクシにとって、『勝五』のだんじりといえば『生野まつり』だった。

なんせ幼少期のワタクシは鶴橋のだんじりに参加していたし、また当時は現在のような『疎開道路パレード』もなかったから、祭礼中に近隣のだんじりと顔を合わすなどと言うときは一大イベントだった。
それが申し合わせてなのか偶然なのか、子供のワタクシには分かる訳もなく、だって、毎年毎回じゃなかったから、予想もせず猪飼野や勝五のだんじりと鉢合わせになった翌日なんか、ワタクシはその余韻から覚めることなく、学校でもその時の事しか考えていなかった。

ワタクシがやがて『だんじりマニア』として覚醒してゆく種は、すでにこの時に撒かれていたんだろう。
それが、『生野まつり』となれば近隣のだんじり同士で誘い合わせて連なって行くのは昔から変わらなかったので、まずワタクシの母校であるが鶴橋中学校』の前で、『勝五』のだんじりと顔を合わせ、手打ちを交わしてから連合曳きで会場へ向かう、それがまず『生野まつり』の最初のイベントだった。

ワタクシが小学生から中学生ぐらいまでの間、猪飼野のだんじりは『生野まつり』に対してあまり積極的ではなく、3年に1度ぐらいしか参加しなかった。
だから鶴橋のだんじりに参加していた当時のワタクシは、『生野まつりは勝五とペアで行動する』というイメージが定着していて、そこへたまに猪飼野が参加してくる年は、清見原の連合、巽の連合と対抗するような連合意識を持っていた。

今となっては考えようもない、少年時代のワタクシの脳ミソが考える事である。
『生野まつり』が終わり、帰り道も鶴橋のだんじりは『勝五』のだんじりと連合曳きで帰ってくる。
猪飼野が参加した年は、一条通りと俊徳街道の交差点で先に猪飼野が打ち別れをして、猪飼野は一条通りを帰ってゆくが、鶴橋と勝五はまだ別れずに俊徳街道を西へ進む。

そして勝五のだんじり小屋からすぐの場所にある『西俊徳地蔵』の前で、鶴橋と勝五は打ち別れとなる。
ここから鶴橋は1台だけとなり、現在の『岡』の地域にあたる『桑津街道』を通って、弥栄神社まで帰るのである。
ここまで長々と何を書いているかと言うと。『勝五』のだんじりというものが、地元のだんじりではないにせよ、幼少期の自分にとって、いかに馴染みが深く、慣れ親しんだだんじりであるかを振り返っているのである。

勝五の衣装を着て参加した事はないにせよ、自分の歴史を紐解いてゆく中で、避けては通れないポジションにあるだんじり。
その一つがこの『勝五』のだんじりなのである。
そのだんじりが、いよいよ勝五での役割を終えて旅立つ日が来た。
では次回は、この『勝五』のだんじりそのものの歴史を、紐解いてみたいと思う。
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