茶屋のだんぢり漫遊録

目次

信濃屋、幼少期を語る・・・《其之参》

 



前回からの続き。


この『勝五』のだんじりは、前々回にちょいと触れた通り、旧村名は『小路』と言ったが、厳密には『小路村』とは言わない。




厳密には『猪飼野村字小路』と言い、猪飼野村の枝村というか、『字村』という形態である。


現在の だんじり小屋の背後に大きな『御神木』が残っていることからも分かるように、元々この場所には『菅原神社』という村社があり、別名を『小路天神』と呼ばれた。




現在は猪飼野の御幸森天神宮に合祀されている。
猪飼野のだんじり小屋の真向かいにその祠がある。

御幸森天神宮の御祭神は仁徳天皇であり、そのため氏子の猪飼野のだんじりは前幕に『五七の桐』をあしらっているのに対し、勝五のだんじりが『梅鉢の紋』をあしらうのは、村社が菅原神社である事に由来する。




当時の小路にとって このだんじりが初代にあたり、だんじり本体は明治22年の製作とされている。

大工は猪飼野村の大工で《大熊》の屋号を名乗った永田熊次郎で、彫物は《彫清》一門の手によるもの。



永田熊次郎は明治20年に、地元・猪飼野のだんじりを製作しており、当時としては最高級の欅材を使用して製作されたと言われており、その残り木で製作されたのがこの『勝五』のだんじりとされている。



三枚式の『幕だんじり』であるが、猪飼野のだんじりがその形式であるため、残り木のだんじりが三枚板の入っただんじりになるとは思えない。

《大熊》製作のだんじりは『幕式』が多いとされているが、現在、尼崎市の西櫻木で活躍している『岡』の初代だんじりは、同じ明治期の製作で三枚板式である。

《大熊》が『幕だんじり』しか製作しなかった訳ではない。



『小路』という村名からも分かる通り、非常に道が狭く、また戸数も少なかったと思われる。

この地域に古く残る言葉にある、
『猪飼野こへて岡こへて
小路の橋にらんかなし』
とは、日本書紀に登場する日本最古の橋『つるのはし』がある猪飼野村に比べて、同じ平野川に架かる橋でも、小路の橋には欄干がないという意味。



いかに小さな村であったかを今に伝える言葉である。

集落としては、俊徳街道の西の終点と、桑津街道と鶴橋街道が並行する地点にあたり、その三つの街道が交差する箇所に『西俊徳地蔵』があり、この地蔵を守りするための一族が住み着いた事で派生した集落なのではないかと思われる。



そのためか、今でも『勝五』のだんじりが曳行出発する時は必ず、この『西俊徳地蔵』に手打ちをしてから曳行を開始するのが仕来たりとなっている。




そうした旧村の規模や経済的な事情などもあってか、『勝五』のだんじりは決して大きくはない。

高さ以上に、幅や長さをかなり抑えた寸法となっていて、さらに屋根幅が狭い。



元々《大熊》が制作するだんじりの屋根は、正面から見ると軒が短く、棟を広く取るため、『むくり』の部分が大波を打ってせり上がる形なのが特徴なのだが、この『勝五』のだんじりの場合、絶対的な屋根幅がないために、軒から大波を打ってせり上がっても、棟の部分を広く取れていない。

この何とも言えない形状の破風が、『勝五』のだんじりの姿見を決定づけていると言っても過言ではないと思う。


しかし、そんな大工の苦心の跡が見られる屋根の真ん中に、どっかと乗る獅噛みはなかなか秀逸で、見応えのある顔つきをしている。



狭い棟の両側へあまりハミ出す事もなく、収まりよくまとまった獅噛みは、このだんじりの顔としては非常にふさわしいと言えると思う。


(次回に続く)


信濃屋お半悠遊!だんじり録
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