信濃屋、幼少期を語る・・・《其之四・最終回》

シリーズでお送りしている大阪市生野区は『勝五』のだんじりのについての4回目。

ワタクシにとっては幼少期より馴染みの深い『勝五』のだんじりであるが、もう一つエピソードを紹介しておく。
ワタクシ信濃屋は生まれも育ちも大阪市生野区で、幼少期は『鶴橋』のだんじりに参加していた事をこのシリーズでカミングアウトした。
しかし、生まれて初めて『お囃子』を打たせてもらったのは、『鶴橋』ではなくここ『勝五』なのである。

まだ鶴橋のだんじりに『青年部』として入会する前。
当時の『勝五』には、のちのち『岡』のだんじりで祭礼をともにするワタクシの盟友が参加していて、幼少期より友達だった。
祭礼前はお互いのだんじりを行き来しては交流する間柄で、その関係でたまたま勝五のだんじりのお囃子練習の日に遊びに行ってて、そこで初めて盟友から
『乗れや』
って促されて、勝五のだんじりに乗り込ませてもらい、囃子を打たせてもらった。
それが、ワタクシが生まれて初めて打たせてもらったお囃子である。

ワタクシは大人になってから、その盟友とともに東大阪市の横沼に参加し、その流れで『だんじり囃子の会』を立ち上げ、あちこちで演奏させてもらった。
このブログで時折用いる『大阪系ヂキヂンコンコンのお囃子』すなわち『天神囃子』の打ち手としては、個人として最盛期を迎える時期をその『お囃子の会』で過ごさせてもらった。
その『原点』が実は、この『勝五』のだんじりなのである。

幼少期に、『近隣のだんじり』として見ていた・・・だけではない、その後のワタクシの人生を大きく演出してくれる『お囃子』との出会いと言うか、スタートラインが、実はこの『勝五』のだんじりなのである。

『人に歴史あり』と言うが、ワタクシみたいな人間でも、少しぐらいはそうした歴史があるのである。
だからこそ・・・なのかどうかは分からないが、この勝五のだんじりがとうとう役目を終えて旅立つのは、感慨もひとしおなのである。
さて!・・・
ここで文体を元に戻しましょう。
なかなか長いシリーズにわたって、ワタクシのセピア色なお話を展開させて頂きました。
長々とお付き合い頂きありがとうございます。
平成29年11月3日(金祝)

来年に新調だんじりの完成を控え、勝五のだんじりの『さよなら曳行』と銘打たれたお別れ曳行が行われました。
午前9時にだんじり小屋を出発して、『セピアブログ』の中でも語った通り、この勝五の地域、ひいては小路村の原点と思われる『西俊徳地蔵』にお別れの手打ちを捧げて、いざ出発です。

町内を一巡した後は、そのまま氏神である御幸森天神宮まで曳行し、そこで昇魂式となるため、出発したらもう、この場所へは帰ってきません。
神社までの片道曳行です。

明治22年に製作されて以来、約130年間にわたりこの地で曳行されてきただんじりは、もはやこの地域に住む誰よりも、この地域のことを知っているのでしょう。

昭和40年代に一時期曳かれない時期もあったのですが、その時期に、諸事情により猪飼野のだんじりが曳行出来ない年があったそうで、その時に、猪飼野のだんじり大工《大浅》こと岡田浅三が、眠っていたこのだんじりを借り、簡単に補修を施して猪飼野として曳行した事をきっかけに、このだんじりが復活したそうです。

以来約40年間、毎年夏と秋の祭礼に曳行され、そして『生野まつり』は一度も欠かさず、皆勤賞であったと記憶しています。

お昼前に御幸森天神宮に最後の宮入りを果たしただんじりは昇魂式の後、岸和田の《大下工務店》へと引き取られて行きました。

この日のワタクシはお別れ曳行を最後まで見届けず、所用で堺市内へ出かけていたのですが、お昼過ぎに戻ってきた時に、勝山通りの交差点で、トラックにて運ばれて行くこのだんじりと出くわしました。

まるで最後のお別れを言うために、最後に引き合わせてくれたんかなぁ?
勝五のだんじりは、オレの事は覚えてくれてたんやろか?
色んなことを思いながら、だんじりの背中を見送りました。

『勝五』の新調だんじりは現在、《大下工務店》にて製作中。
来年の夏前には完成、お披露目される予定です。

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