矢継ぎ早に『大立山まつり』を畳み掛ける!

まぁまぁまぁまぁ・・・
ワタクシのブログ更新が不定期なのが良くないのですが、早く『奈良・大立山まつり』の話題を通り過ぎたいばっかりに連日の更新となっております。
お許しを、お許しを・・・
1月26日(金)から開催されてきた『奈良・大立山まつり』は、27日(土)に『小川祭り』の太鼓台と十市町のだんじりが登場。

そして翌28日(日)は菟田野水分神社の太鼓台が登場したところまでお届けしてきました。
そして今回いよいよオーラス。
大和高田市は大和地車保存会のだんじりが登場します。

昨年に続いて2年連続での参加となった大和のだんじりなのですが、実はワタクシ、昨年はちょっとした事情で大和のだんじりを拝見できなかったのです。
今年は一応、そのリベンジを果たさないと!・・・と意気込んで、連日猛烈な寒さの中を奈良へと馳せ参じで来たのであります。

出番を待つ大和のだんじりを、まじまじと拝見。
ワタクシ自身は、このだんじりがかつて岸和田市の大町のだんじりとして八木地区を駆けずり廻っている様子は何度も拝見してますが、こうして据え置かれている状態をお目にかかる機会は稀でしてね。
数年前、岸和田の《隆匠》似て修復されていた時に、組み立て途中の様子をちょいと見学させて頂いて以来のご対面。

昨年も見れてないし、久しぶりの大和のだんじりなのです。
だんじりの詳細は以前のブログでも触れてますので割愛しますが、その前回のブログではご紹介しなかった彫物をまずは金網越しに、土呂幕から覗き込んでみましょうか。
『天児屋尊 神鏡を以て怪異を顯する』

の場面から、その天児屋尊を接写。
こちらは『神功皇后 応神天皇を平産す』
から、神功皇后。

こちらは応神天皇を抱きかかえる武内宿禰。

見送りには『川中島の合戦』が彫り込まれていますが、こちらの武田信玄と上杉謙信は昭和47年に植山義正 師によって大改修が行われた時に彫り替えられたものでしょうかね。

とにかく多くのだんじり愛好家や専門家から絶賛され、『名だんじり』の名を欲しいままにする大和のだんじり。
その良さや、このだんじりの持つ魅力や、なぜそこまで愛好家がこのだんじりを『名だんじり』と褒めちぎるのか、モチロン他にも『名だんじり』と呼ばれるものは数多くあるのですが、そんな話を書いてたら終わりませんので、またいつか掘り下げてお話する機会も訪れましょう。

さてさて、いよいよ大和高田市の伝統芸能としての出番がやってきた大和のだんじりは、やっぱり『岸和田型』のだんじりという事で、いわゆる『ステージパフォーマンス』には向いておりませんでね、曲がり角の伴う道こそが、このだんじりのステージという事で、遣り廻しをしながらの曳行となりました。

昨年は会場が大極殿の前という事で、大極殿をバックに勇壮に駆け抜けていたらしいのですが(なんせ去年はワシは見れなかったのでね)、今年は大極殿を遠くにのぞみながら、中央ステージ後方の道を往復しながら、曲がり角で遣り廻しを披露していました。

明治12年に製作されてから、かれこれ140年の時を越えて活躍しているだんじりです。
これからも末永く大切にされる事をお祈りしています。

数回にわたりお届けした『奈良・大立山まつり』の話題は今回で終了。
ワタクシも昨年のリベンジを果たせたところで、ちょうどお時間となりました。

昨日に引き続き、だんじりの出番終了とともに、大立山の巡行は目にする事なく、ワタクシは奈良を後に致しました。
<<前の記事 | 次の記事>> |