明治の遺産、お目にかかる《後編》

東大阪市・永和の先代だんじり。
現在の、守口市・大日のだんじりです。

その、平成の大改修前の彫物を特別に見学させて頂きました。
では、その貴重な部材の数々を拝見して行きましょうか。
まずこちらは大屋根正面獅噛み。

これは現在も永和のだんじりの給水車に取り付けられているので、見る事は出来ます。

大屋根正面の懸魚。

拝懸魚と隣懸魚を一対で。
おそらく新調当時からのもの。
こちらは土呂幕。

これらの彫物をお写真でご紹介しながら、現在は守口市の大日で曳行されている永和の先代だんじりについて紐解いてゆきますが・・・
元はこのだんじり、現在の生野区は巽地区の四條の初代にあたるだんじりで、製作年代や大工は不詳となっていました。

昭和の頃に発刊されていた『郷土誌いくの』という冊子を参照すると、明治10年9月に、巽の『大地(おおぢ)村』の大工・永尾嘉平にて製作された幕式のだんじりであるとの記述を発見。

なお、現在の生野区『巽』という地名は明治22年の市町村合併に際して、渋川郡の四條、西足代、矢柄、伊賀ケ、大地の5ヶ村を合併する際、大阪城から見て『辰巳(巽)の方角』に当たることから『巽村』と名付けられ、5ヶ村の氏神を合祀して『巽神社』を建立しました。
元々『渋川郡』にあたる巽村はれっきとした『中河内』であり、昭和30年に大阪市生野区に編入されても、『摂津』には含まれません。

さて、そんな四條の初代だんじりを永和が購入した年代は、明治40年頃とも大正2年頃とも言われますが、確証はありません。
昭和の初め頃に住吉の《大佐》にて見送り部分に三枚板の彫物を追加し、昭和40年代に入りしばらく曳行されない時期を経て、昭和50年代になって、淡路の《梶内だんぢりや》にて修復を施し、その際に屋形を変え、背を少し高くしています。

そして平成元年に岸和田の《吉為工務店》にて平成の大改修を経験し、現在の姿見に至るのですが、写真でご紹介しているのは、その平成の大改修の前に取り付けられていた彫物の数々。

見送り三枚板は平成の大改修では彫り替えられていないので、現在も大日のだんじりに取り付けられていますが、それは昭和の初め頃に《大佐》にて修復の際に取り付けられたものという事で、これら製作当時からの彫物とは年代も工匠も変わるはずです。
あと、永和の会館にて保存されていた彫物部材の中で、いくつかはそんな修復時に交換されたものとは別の部材があります。
例えばこの隣懸魚。

側面には『川田哲生』の銘が刻まれています。

これはだんじり彫刻にはその名の出てこない職人で、昭和の終わり頃から平成にかけて、この永和の地域に『次郎吉』を名乗る人物があり、詳細は不明ですが、この永和をはじめ周辺地域のだんじりのちょっとした小修理や、鉦などの鳴物道具を世話したりと活躍した人物だそうです。
本業はだんじり関係でも大工関係でもなかった様なのですが、地域のだんじりの世話をしていた人物として、この旧・布施地区で古い人であれば、その名を知る人も少なくないのだそうです。
この縁葛も、もしかしたらその『次郎吉』による作品である可能性もあるかも。

まぁ、こうして知れば知るほど奥深いエピソードに行き着き、すべてを明文化して記述するのは困難なものにも当たります。
永和のT氏をはじめご尽力頂いた皆さま、貴重な部材の見学、本当にありがとうございました。
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