茶屋のだんぢり漫遊録

目次

このだんじりの詳細を知りたかった!《前編》

 


前回・前々回の2回にわたり、東大阪市は布施地区の永和の先代だんじりについてのお話をお届けしましたが、同じ日である2月11日(日)、こちらのだんじりを見学させて頂きました。



東大阪市は盾津(六郷地区)の、中新開のだんじりです。


前々回、永和の先代だんじりの回の冒頭でお話させて頂いた事のおさらいになりますが、同じ『東大阪市』という括りの中でも、旧・布施市にあたる市内の西側と、旧・河内市にあたる市内の中央部、そして生駒山地にあたる旧・枚岡市では祭礼文化圏が違うというお話になります。

ここ中新開は、旧・河内市にあたる地域で、行われる祭礼は一種独特。
昔ながらの『中河内』の祭礼を今に継承しているのは『若江地区』だと言われていますが、ここ盾津(六郷地区)の祭礼は、その『若江地区』とも少し異なる祭礼を展開しています。



まぁ今回はそんな『祭礼談義』はちょっと置いといて、この中新開のだんじりそのもののお話を展開して参りましょう。


ワタクシ個人と致しましては、かねてからじっくり見学させて頂きたいと切望していただんじりなので、この度ご尽力頂きました中新開地車保存会の皆さん、ならびに『上地車新報社』さまには御礼申し上げます。



写真ではその姿見からご紹介していますが、一見、普通の『上地車』と何ら変わりのない姿に思えますが、こうして色んな角度から全体像を眺めていて、何やら違和感の様なものは感じませんか?



『上地車』と呼ばれる形式のだんじりは、地域によって構造や細部が違っていて、それぞれに地域名を冠した型名が付けられていますが、ここ中新開のだんじりは基本的に『大阪型』に分類されます。


しかし、一般的な『大阪型』のだんじりとは、明らかに違うと思われる箇所が目に付きます。

お気づきの方もあろうと思うのですが、ズバリ言うと『土呂幕』部分であります。



土呂幕の彫物が二段式になっているのですね。




ワタクシがこのだんじりを初めて見たのは平成4年頃の『東大阪ふれあい祭り』でのパレードでした。

その当時にはもうこの姿見になっていました。


パッと見た時から、土呂幕が二段になっている姿見が印象に残ったのですが、ワタクシ自身、それ以前に写真で見た時の印象とだいぶ違っていて、
『え〜?こんなだんじりやったっけなぁ?』
という印象は拭えなかったのです。

その、平成4年頃にこのだんじりを実際に見る前に見ていた写真というのが、こちら。



このお写真は大阪地車研究会発行の『大阪のだんじり・東大阪編』から転載しました。


この写真で見る中新開のだんじりと、実際に見た中新開のだんじりとは明らかに印象が違っていたのです。



答えはまぁ、平成元年に京都の宮大工《清水工務店》にて大改修を行なった際に現在の姿見となったという事なのですが、そうなると、次はこのだんじりの製作年代や大工、彫師、また出自といった歴史的詳細が知りたくなると言うもの。



なので今回ご用意していただいたこの貴重な機会は大変ありがたく、楽しみに勉強させて頂いた次第なのであります。



中新開を含む『六郷村』はかつて、太鼓台での祭礼が主流でありました。

しかし明治期に入り、近隣の村がこぞって『だんじり』への転換を図り、その時代に押される形で、中新開も購入に踏み切ったのが現在のだんじり。



明治38年に『若江村』から購入したもので、改修前はもう少し小振りな『大阪型』のだんじりであり、また『若江村』のどの地域から購入したものかは不明。

モチロン、若江村で新調されたものでもないと思われます。




ではでは、次回はまたこの中新開のだんじりについて本体細部を拝見しながら、さらに掘り下げてみたいと思います。


(次回に続く)


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