このだんじりの詳細を知りたかった!《後編》

東大阪市は中新開のだんじりについて、その後編と参りましょう。
氏神は諏訪神社で、その神社のお隣に会館とだんじり小屋があります。

もとはすべて、神社の敷地であったと思われます。
前日の雨の影響で小屋の前の敷地が湿気を含んでいるにも関わらず、青年団の皆さんがだんじりを見やすい場所まで出して下さいました。
有難うございます。

当サイトの『各町だんじり紹介』のページでも、中新開のだんじりについては製作年代も大工も彫師も『不詳』とされています。
また前回のブログで引用した『大阪のだんじり・東大阪編』でも、平成27年に発行された『神賑行事調査録』にも、それらを特定する記述は見られませんでした。

ただ、それらの書物にもある通り、彫師については《彫清》一門との看立てはほぼ間違いないかと思われます。
こちら獅噛みは三面とも、大阪市生野区の腹見のだんじりに近く、似た様な作風の獅噛みは《彫清》一門の作品に多く見られます。

正面懸魚は元々、小屋根についていた部材だそうで、改修時に大屋根側に付け替えたと言われ、元々の大屋根の懸魚は行方知れず?・・・

という訳で現在は小屋根側に懸魚はなく、お陰さまで車板の獅子がよく見えます。

こちらは見送り三枚板。

この大蛇退治は素戔嗚尊で良いんかな?
他に大蛇退治の人物誰か居てましたかね?
こちらは加藤清正の虎退治です。

目の感じで彫物の印象は変わるので、大改修の時にもう少し慎重な目の入れ方はしてもらえなかったのかと思うと少し残念ではありますが、おそらく《彫清》、もしくは《長谷川亀蔵》の可能性も示唆されますが、確証はナシ。
土呂幕部分。

改修前はおそらく一段で、改修時に腰の高さを上げるために一段足されたのだと思うのですが、この彫物はどうも、《彫清》一門とは手が違う様に思われます。

寸法が低いことを見ると、もしかしたら『下勾欄』が付いていたのか、はたまた過去の太鼓台に取り付けられていた部材の可能性もあります。

《和泉彫》では?・・・との声も聞かれるのですが、特定には至りません。
如何ですかね〜?
京都の宮大工《清水工務店》と聞いて、さぞ京都市内の工匠かと思ってしまいますが、実は京都府の木津にある工務店だそうで、京都と言うよりむしろ奈良に近い工匠という事になります。

『岸和田型』のだんじりの様に台木から太い抱き柱が舞台まで通っていて、それが舞台柱を抱いています。

もしかしたら、だんじりなど扱った事のない《清水工務店》がこのだんじりの修復を受け持った際、独自に『だんじり』の構造を調べたところ、『岸和田型』の組み方に行き着いたのを応用したのではないでしょうか?

現在、だんじりを扱う各工務店において、『上地車』の修復に際してこの様な細工はまずしないでしょう。
大屋根と小屋根の段差が大きいのも注目すべき点。

背を上げるため、大屋根側の柱の長さを伸ばした結果ではないでしょうか。
製作大工に関しては、平成の大改修で姿見が大きく変わっておりその推察は困難ですが、昨年、腹見のだんじりを見学させて頂いた時に見た木造りと同じ細工を発見しました。

また今一度『大阪のだんじり・東大阪編』の写真などを参照して、心当たりのある工匠にある程度の確信をもって行き着く事が出来ました。

おそらく、生野区・片江の先代だんじりを製作した大工《大喜》宮崎喜三郎 師の作品ではないかと・・・。
モチロン確証は得られてませんので、あくまで推察です。

しかしながら、前々からその出自や詳細を知りたいと思っていただんじりを、じっくり拝見させて頂く機会が得られ、大変有意義でありました。
この中新開のだんじりも、いよいよ中新開での役割を終える事となり、保存会ではこのだんじりの売却先を探しておられるとの事。
新しく購入するだんじりは内定していますが、現段階でリリース出来るかどうかは未確認ですので、今のところは発表を差し控えておきます。
いずれ発表できるタイミングも訪れましょう。

改めて、貴重な機会を設定下さった関係各位の皆様には、御礼申し上げます。
今回はここまで。
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