茶屋のだんぢり漫遊録

目次

ひとまず修復って感じですが…

 


河内長野市は高向地区高向下町(たこうしもまち)のだんじりが、岸和田の《大下工務店》にて修復されまして、4月22日(日)の午後に町内へと搬入されました。



入魂式は当日、小屋の前にて行われまして、お披露目曳行等の予定はありません。


当ブログの古くからの読者の方はご存知かと思いますが、ここ河内長野市・高向地区の3台のだんじりは、2009年(平成21年)の11月に、3台並べての見学会が催され、その事は先代ブロガー『だん馬鹿さん』が書いておられます。

その当時ワタクシはまだ熱心なだんじり研究者ではありませんでねぇ・・・

その数年後によもやワタクシが当ブログを引き継ぐ事になるとは夢にも思ってなかった頃でしたから、その見学会には足を運んでおらんのです。




なので、昨年3月に行われた高向上町の入魂式など、今になって見れる機会を生かしながら見学して回っている状態。

まぁ前向きに捉えるなら、学習したいと思っている事は、その機会を待てば巡って来るものなのです。




この高向下町のだんじり搬入は、4月15日(日)の午前中に予定されていたのですが、その日の午前中は前日の土曜日から降り始めた雨が残っており、この日に順延されていたのです。

もし、15日(日)の午前中に搬入が行われていたら、ワタクシはこのだんじりを拝見するチャンスを逃していたところ。
まさに雨が幸い致しました。



この日、だんじりは工務店からトラックにて運ばれて来て、ちょうど高向中町と下町の間にあたる外環状線沿いのファミリーマートの駐車場に降ろされたところでした。



ここ高向地区のだんじりは3台とも『名地車』の呼び声が高く、明治期に住吉の名門大工《大佐》によって製作されたもので、彫師も《小松》一門の手によるものと共通点も多いのが特徴。



高向下町のだんじりは明治28年《大佐》十一代目・川崎仙之助により製作されたものですが、高向下町が購入したのは大正14年との記述もあります。


例によって、矢継ぎ早にだんじり本体を鑑賞して行きましょう。

まず目に付いたのが、この前へ張り出した舞台。



典型的な《大佐》製作の『住吉型』だんじりなのですが、この舞台の張り出しだけは珍しいかも知れません。



縁葛を見る限り、製作当時からこの寸法だったのではないでしょうか?




彫物は《小松》一門の手による作品とありますが、年代からしても、中心となって作事していたのは九代目・小松源助(岡村平次郎)と看て良いと思うのですが、こと仕上げ師に関しては多くの手が混在しているのではないですかね?



当時の《大佐》の製作するだんじりは、その多くを《彫又》一門が手がける場合が多く、それ以外に《小松》《辻田》《彫清》などにも発注を出す場合でも、責任者こそその一門の師匠であっても、仕上げ師に至っては共同作業で製作していた一面があります。



それによって、完全なる《小松》一門の手による作品・・・とは断言できないのであります。



以前にもワタクシは『彫物は目で印象が変わる』と記述した通り、おそらく以前の修復の時ではないかと思うのですが、もうちょい慎重にこだわって目を入れてもらえてれば、これらの彫物の印象ももっと違っていたかも知れません。




そうこうしている間にだんじりは駐車場を出発して、鳴物もナシのまま小屋までの道のりを曳かれて行きます。



今回の修復は何年も前から予定されていたものではなく、昨年の祭礼時における不慮の事故のため、破損した箇所の修復という事になります。



応急的な修理という事で部材の新調交換などはなく、破損した屋根廻りを中心に補修と、全体の締め直しといった修復内容となります。
そのため、入魂式も神社まで曳行してのものではなく、小屋と会館の前で行われ、大々的なお披露目曳行も行われないという事。



下町の小屋と会館は地域の路地の奥にあり、ずいぶん狭い道を抜けて行きます。



古民家が残る細い路地をだんじりが曳行される風景が大好きなワタクシ的には、鳴物があろうがなかろうが何よりのご馳走です。



『だんじり行事』としては本当にひっそりと、ささやかに行われたものですが、それでも多くの人が見物に詰めかけ、また地域の人がこぞって出迎え、近隣の町がお祝いを携えて駆けつけていました。




いずれは根本的な大修理も行われるのかも知れませんが、まずは昨年の傷を治し、今年の祭礼は無事故で終えられる事をお祈りしています。


信濃屋お半悠遊!だんじり録
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