茶屋のだんぢり漫遊録

目次

烏帽子形八幡氏子総出で迎えた名地車


期間をまたいでお届けしてきた、河内長野市は三日市地区のだんじり3台の見学会の話題ですが、いよいよ今回で締めくくりを迎えます。

そして登場するだんじりはこちら!



お待たせ致しました、小塩町のだんじりでございます。


ワタクシ、この日の見学会で一番の目的だったのがこのだんじりでございまして、加えて車で三日市地区に入ります際のアクセスの関係もあり、真っ先に向かったのがここ、小塩町でございました。

しかーし、ブログでご紹介するのは、トリを飾って頂く事に致しました。



やはり、古くから『名地車』の名を欲しいままにしてきたこのだんじりに関しては、紐解きたいエピソードもありましたのでね、最後に持ってきましたよ。

先代ブロガー『だん馬鹿さん』もかつてブログにしたため、また当サイトユーザーのだんじり愛好家の方の中にもご存知の方は多かろうとは思いますが、まずはだんじり本体からご紹介して参りましょうかね。



製作年代は不詳ながら、幕末頃の製作と言われ、一説には天保年間との推察もありますが、確証はありません。

大工も不詳ながら、『堺型』のだんじりである事から、かつて堺で活躍した《大源》の屋号を名乗った木村一門との看立てもあります。



平成4年に《植山工務店》にて修復されていますが、『折り屋根式』の構造を現在も残し、おそらく、ほぼ原型を留めた姿見であると思われます。




彫物は堺の《彫又》二代目・西岡又兵衛を筆頭に《彫又》一門の手による作品。

このだんじりが『名地車』と呼ばれる所以はその彫物の良さであり、特に見送り三枚板から縁葛にかけては『神功皇后の三韓征伐』の場面なのですが・・・



特にこの正面『阿部介丸の龍退治』は、波と龍を柱の位置に置き、阿部介丸の船は奥行きを持たせるために柱よりも内側に配置してあるという珍しい形式。



その左右を固める『宝珠を投げ入れる武内宿禰』と、戦況の指揮をとる神功皇后も、思わず目を見張る秀逸な作品です。



これらの場面に関してはかつて『だん馬鹿さん』も過去のブログで掘り下げておられますので、詳しくはそちらを参照して頂くとして、今回のブログでは他のお写真をご紹介しながら、ちょいと違ったエピソードをお届けしようと思います。



ちなみに、過去ブログへは当サイトの各町紹介ページの『小塩町』からリンクが貼られておりますので、ご参考までに。


まず、製作年代に関しては未だ特定に至りませんが、主な彫物の図柄が『神功皇后の三韓征伐』であったりする事も考慮して、江戸期の作品であるという看立ては濃厚であると言えるでしょう。




このだんじりを小塩町が手に入れるのは明治中期に堺の開口神社の氏地である新在家濱から購入とあります。



堺の新在家濱は現在は太鼓台を所有しており、9月中頃に行われる開口神社の例大祭、通称『八朔祭』にて盛大な祭礼を行なっています。

この新在家濱が、天保年間から幕末にかけて新調した・・・と解釈して良いものかと。



このだんじりを小塩町(かつての小塩村)が購入するのは『明治中期』とされていますが、おそらく明治29年の『堺だんじり騒動』により、祭礼でのだんじり曳行を禁止されてしまった後、いつまでも持っていても仕方がないだんじりを処分する意味もあり、嫁ぎ先を探していたのではないでしょうか?

なので、明治30年以降で割と早い時期に、小塩村が買い取る話がまとまったと思われます。



事情あって曳けなくなっただんじりとは言え、当時の新在家濱では、我が子を手放すかの様に名残りを惜しまれただんじりだそうで、当時の堺の中でも、『名地車』の誉れ高いだんじりであったことが伺えます。



このだんじりを迎え入れるにあたり、小塩村では同じ烏帽子形八幡神社の氏子である上田村、喜多村にも協力を仰ぎ、三村が合同で出迎えたと言われています。

だんじりの引き渡しは堺の百舌鳥のあたりで行われ、新在家濱から百舌鳥までは新在家濱の村が総出で、現代でいう『お別れ曳行』の如く曳かれて来たそうで、これを喜多村、上田村とともに引き取った小塩村では、百舌鳥から『西高野街道』を曳行して持ち帰ったそうです。



道中、行き交う人や途中の村々の人々の目に留まり、『購入金額の倍を出すから譲ってほしい』と申し出る村もあったというエピソードが残っているぐらい、このだんじりが如何に当時から人々の目を引く程のものであったかを物語っていると思います。




前回のブログでも触れた通り現在の『三日市地区』の祭礼は、昼間は泉州式の曳行スタイルで『遣り廻し』も盛んに行われていると申し上げていますが、ここ小塩町のだんじりはそうした時代の流れをものともせず、一貫して昔ながらの曳行スタイルを貫いています。

また現在の南河内ではほぼ全域に普及した『曳き唄』も、ここ小塩町では行われていなかったはず。



そして何より、今手元にお見せできるお写真はないのですが、小塩町の『ブン廻し』は他の町とはひと味違い、後梃子の先端に必ず一人がぶら下がった状態でブン廻すという独特の場面が見られます。


『時代の流れ』ていうものは必ずあり、それによって各地の祭礼が様変わりする、その事の是非を論じる事はしませんが、こうした小塩町の祭礼を見るにつけ、『祭のやり方とはどうあるべきものか?』を考えさせられる事は確かにあります。



町の宝物はだんじり本体だけではないと思いますが、120年近く小塩町の宝物として守り抜いてきただんじり本体と併せて、昔ながらの祭の形も残してほしいと申し上げて、シリーズでお送りした河内長野市は三日市地区のだんじり見学会のブログを、これにて綴じたいと思います。



信濃屋お半悠遊!だんじり録
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