大好きな獅噛み・・・そんなタイトル

5月も後半に入り、ここに来て一気に『だんじり行事』が増えましてね・・・
当サイトの撮影クルーからも各地で行われた『だんじり行事』ならびに神戸市各地区の祭礼の写真が寄せられています。

どれぐらいご紹介できるかは分かりませんが、また精力的に当ブログにてご紹介して行く他、写真館や動画館の更新を、どうぞお楽しみにお待ち下さい。
さて以前、河内長野市の上田町についてブログを執筆しておりました時のこと。
当サイトの各町だんじり紹介のページには、各町ごとの紹介の下に、その町に関する過去のブログも一覧にリンクされております。
以前『だん馬鹿さん』はどんな事を書いていたのかと思い、それらのブログを紐解いてみたらですねぇ・・・
『ファン必見のええ獅噛み』
ていうタイトルで、この上田町の先代だんじりの獅噛み(岸田恭司 師作)の写真が1枚のみ掲載され、さらに『どこのだんじりかは教えません』みたいな文章で、河内長野の祭礼に足を運んで確かめなはれ・・・みたいな内容のブログでした。
上田町のページのリンクからそのブログへ飛べますので、一度ご確認してみて下さい。
ワタクシはですねぇ・・・
このブログを執筆するにあたり、出来るだけユーザーの皆さんに分かりやすい様、至らぬ点はあろうかと思いますが誠心誠意の文章を心がけて書いて来たつもりです。
写真1枚だけなんて、あろうはずもない。
しかし、過去のそのブログは写真1枚のみでした。
正直、『え?…こんなんでええの?』て思うほどの内容。
そりゃまぁ、ブログですから、内容は自由です。
もっと気楽で、もっと簡単な内容でも成立します。
探してみれば『だん馬鹿さん』が書き残して来たブログには他にももっと簡単な内容のものが出て来ました。
写真1枚なんて当たり前のように・・・
そっか(溜息)・・・ワタクシが肩肘張りすぎなんやな・・・
もっと気楽に書いていいんや・・・
なんか、それらのブログを見てから、良い意味で肩の力が抜けた感じがしましてね・・・
なので、今回はそんな感じの気楽な内容を書こうと思います。
こちら!

ワタクシにも大好きな獅噛みはあります。
それも一つや二つではありません。
元々『上地車文化圏』で生まれ育っただんじり愛好家ですから、好きな獅噛みは数知れずです。
しかし、このお写真の獅噛みは、それらの中でも、ワタクシが取り分け大好きな獅噛みに数える作品。
もう、ピーン…と来られている方もおありでしょう。
『どこの獅噛みかは教えなーい』
みたいな事は、ワタクシはやりません。
この獅噛みは・・・

神戸市東灘区・御影中之町のだんじり。
富山県は《井波彫刻》の第一人者・川原啓秀の作品。
川原啓秀といえば、獅噛みだけを取ってみても泉大津市の上之町であったり福島区の野田恵美須であったり、代表的な名地車は数多くあります。

↑野田恵美須 獅噛み
また神戸市内にも住之江區、山田區、吉田區など、今も見る者を魅了してやまない獅噛みは資料を漁らなくてもサッと出て来ます。

↑住之江區 獅噛み
それら数多い名作の中でも、この御影中之町の獅噛みは川原啓秀にとって初期の作品とされ、後々の作品とは違う雰囲気を持っています。

端的に言えば、『輪郭が丸い』んであります。
川原啓秀の獅噛みの輪郭は、総じてが四角いんです。
言うなれば『台形』。
それでいて鋭い眼光と精悍な顔立ちが特徴で、誰が見ても『ええ獅噛みや〜』て思わせる事の出来る作品です。
それらに比べるとこの御影中之町の獅噛みは輪郭が丸みを帯びていて、やや『うつむき加減』に彫られてあり、そのためか遠くから見た特の『パッと見ィ』では、その良さが伝わりにくい。

しかし、よくよく近づいて斜め下から見上げた時には、思わず『うわぁ!』って声をあげたくなる程の顔立ちに触れ、その場に立ち尽くしてしまうんですな。

『めっさええやん!』
という言葉を漏らしながら・・・
吸い込まれる様な感覚のままその獅噛みを見つめていると、どれ程の時間が過ぎようとも気にならないほど、『見惚れてしまう』という表現がピッタリ来る獅噛みなのであります。

三面とも素晴らしい。
大屋根正面に据えられている獅噛みの裏側に、『川原啓秀』の銘が刻まれてあります。

この御影中之町のだんじりそのものの製作年代は古く、明治36年。
大工は不詳ですが彫師は平間勝利とされ、大部分の彫物は平間師による作品かと。

その後、昭和初期に大工・大石巳代吉により改修が施され、その時に川原啓秀により、この獅噛みと懸魚とが新調交換されています。
曳行中のだんじりの後ろからついて歩く時って、皆さんならどこ見ながら歩きます?
屋根の人の踊りや舵取りの様子など、色んなものを見ながら歩くと思うんですが、その中でも気づけば獅噛みを見ながら歩いたりしてませんか?

この御影中之町のだんじり、獅噛みを眺めながらずうーーーっと…、ついて歩ける、そんな1台ではないでしょうか?
川原啓秀自身は、大正時代の中頃から神戸に居を構えて仕事をして行く中で、初期に刻んだこの獅噛みの、遠くからでは少し良さが伝わりにくい部分を改良するために、のちのちの獅噛みの顔つきを変化させて行った・・・のではないでしょうか?
この獅噛みを踏まえて、のちのちの輪郭の変化や、『うつむき加減』な目線が少し前を向く様になり、遠くから見ても『ええ顔や』て思える作品へと発展して行くのではないでしょうか?

あくまでも推察ですが、年代を追って見て行く事で、そうした推察を巡らすのも、だんじり鑑賞の楽しみの一つですからねぇ。
手短かに簡単に終わらそうと思って書き始めたブログですけど、気づけばこんな長さになっておりました。
こんな感じの内容も、また良いかも知れませんね。
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