4月のこぼれネタ

5月に入りまして『だんじり行事』がドバッと増えた事で、忘れてしまいそうなネタがあったのを思い出しました。
て〜事はつまり、忘れとったんやないかい!・・・て突っ込まれそうですが、そうそう、4月のこぼれネタを消化しておきましょう(やっつけ仕事な!)。
4月29日(日)は毎年恒例、東大阪市で『布施だんじりパレード』の『長瀬だんじりパレード』のダブルヘッダー。

ワタクシ今年は動画も写真も全く撮影せず、某町だんじりに参加オンリーとしましたので、ケータイで撮った画像しかございません。
で、翌日となった4月30日(月祝)は・・・
前日のダメージが体中に残り、朝は起きれない始末(どんだけ張り切ってだんじり曳いてたんや?)・・・
それでも!・・・『あ、だんじり行事がひとつあったぞ』・・・と、バキバキの体を引きずりながら向かった先が、こちら。

大東市は南大東連合の、大野でございます。
この度、だんじり小屋を新築されまして、その記念の曳行だったのですが・・・

元々は、大野の氏神様である『大野神社』に隣接して建てられてあっただんじり小屋なのですが、その神社のお隣に大規模なマンションが建設されるとかで、そのために大野の会館横に小屋を移転したと、そういう事情。

お写真でも分かる通り、神社横に建設現場の垣根が迫っております。

工事が進むにつれ、この垣根がもっと広げられたら、それこそだんじりが出せなくなってしまう事が懸念されての小屋移転でありまして、その費用も実は、マンションの建設業者さんが移転に協力して下さったとの事。

そんな事情を踏まえてのこの日の記念曳行となったのですが・・・
では、だんじり本体を鑑賞しましょうか。

パッと見ィ、『岸和田型』いわゆる『下地車』である事にお気づき頂けますかね?

北河内に分類される地域としては唯一の『岸和田型』なのでありますが、お写真でも分かる通り、鬼板は獅噛みに改められており、担い棒が巡らされている形式。

もとは大正4年に、岸和田の畑町が新調したものだそうで、現在の畑町のだんじりから見て先々代にあたります。
昭和24年に鶴見区の諸口が購入し、獅噛みや担い棒はその際に取り付けられたもの。

その後約50年にわたり諸口のだんじりとして曳かれました。
ワタクシが少年期にこのだんじりの存在を知ったのも、諸口で曳かれていた時代。
大阪市内で唯一の『岸和田型』という触れ込みで興味が掻き立てられましたが、現在とほぼ同じ改修を施された姿には、少々興醒めした記憶があります。

現在の諸口のだんじりが、平成12年に《大下工務店》にて新調された完全なる『岸和田型』だんじりであるのは、この先代『岸和田型』だんじりで長年にわたり祭礼を行なってきた歴史が下敷きにあるのは明白であります。

さて、そんな諸口の現だんじり新調に伴い、大野へとやってきたこちらのだんじり。
姿形は諸口で曳かれていた時代とほとんど変わらずです。

気づけば大野へ来てかれこれ18年が経過していまして、平成26年には《北本工務店》にて修復され、その時に岸和田藩による『岸極』の焼印が発見されたそうで、大正4年の新調とは言うものの、用材には江戸期のだんじりの部材が再利用されているものと思われます。

ワタクシが大東市の話題に触れる時に度々申し上げている事ですが、同じ大東市でもここ南大東連合の地域は東大阪市に接しており、文化圏としては『北河内』ではなく『中河内』に属します。

つまり『北河内型』のだんじりが群生する『讃良郡』ではないという事で、近隣のだんじりも一般的な『上地車』でお囃子も大阪系天神囃子を主流としています。

決定的に言える事は、大太鼓を吊り込み式にする『岸和田型』のだんじりでは、やっぱり『大阪系天神囃子』を奏でるには不向きであります。

それぞれの楽器と向き合う時の姿勢や距離で、バチや撞木の持ち方、構え方、打ち方が変わって来ますからね。
それだけで、本来出るべき音が大きく変わってしまいますから、本来なら、やっぱりだんじりの形式はその土地柄に合ったものが望ましいと思うのは、多分ワタクシだけではないだろうと思います。
ちょっと値打ち吐きにしまってたらゴメンナサイ。

この大野の地域と、氏神・大野神社を取り巻く風景が今後、どんな風に変化して行くのかは未知数ですが、どうか今後ともだんじりを愛して頂き、長く祭礼が続けられる事を願いながら、今回はここまでにしておきましょう。
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