脊戸口町、獅噛み替えました《前編》

5月2日(水)から始まった神戸市内のだんじり祭が終了した翌日の5月6日(日)・・・
所変わってここは大阪市平野区。
午前8時という時間から氏神・杭全神社を目指す1台のだんじりがありました。
それはこちら!

脊戸口町のだんじりです。
この度、岸和田の《植山工務店》にて修復され、この日に入魂式とお披露目曳行が行われたのです。
修復内容などはまた詳しく触れますが、今回の修復で何より目を引くのはこちら、獅噛みの彫り替えであります。

こちらは《木彫 片山》片山晃 師による作品。
これからこの獅噛みが、脊戸口町のだんじりの文字通り『顔』となり、祭りに携わる人々や町の様子、祭礼の様子を見つめてゆく事となります。
ひとまず午前9時に神社にて入魂式を行うために宮入りしますが、宮前交差点では、宮入りのパフォーマンスは行わずにそのまま通過。

お正月の『注連縄上げ』の時と同じく、杭全神社の参道を奥まで進み、山門前に到着しただんじりはその場に据え置かれました。

ちょっと話は横道に逸れますが、昔はこの杭全神社の山門をだんじりがくぐり、拝殿の前まで参入する場面がちょこちょこ見られたんです。

それは昔の入魂式や、祭礼前のだんじりの清祓いなどの時に、だんじりが山門をくぐる場面が見られました。
この脊戸口町のだんじりも、以前の修復は平成3年ですが、その時の入魂式では山門をくぐっています。

平野のだんじりも少しずつ大型化が進んだことで、山門をくぐる場面が見られなくなるのは、ある意味寂しい事かも知れません。
さて、この脊戸口町の入魂式についてはお写真も豊富に手に入っておりますので、だんじり本体の鑑賞はちょっと次回に譲るとしまして、今回は当日のリポートに徹しようと思うのですが・・・

この日のタイムスケジュールとしては、午前8時に小屋を出発して8時半には宮前交差点通過、9時より入魂式という予定でしたが、それよりも少し早めに経過して行き、神社からの出発も9時40分の予定時間を待たずして出発。

9時半には宮前交差点を南に渡り、御渡り筋へと入っていました。
これよりお披露目曳行に移りまして、平野郷の中でも広大な面積を誇る脊戸口町の旧村、及び新開地を、丸一日かけて回ります。

まずは本町通り商店街、通称『サンアレイ』のアーケードへ入ります。
この本町通りの南側は脊戸口町の町域。

祭礼本番と違ってこうした時期外れの曳行は、参加人数の関係や参加者のテンションに左右されやすく、割と淡々とした曳行になる場合もあるのですが・・・
この日の脊戸口町の曳行は祭礼本番と変わらぬ、平野らしい活気あふれる曳行となりました。

特にこのサンアレイ商店街から南海通りへ出る丁字路へは、脊戸口町のこだわりとも言える勢い良い飛び出しが見られ、見る側のテンションも上がります。

やがてだんじりは内環状線を西へ渡り、いわゆる『新開地』と呼ばれるエリアへ。
平野郷には9町のだんじりがあり、それぞれの町割りのエリアを曳行する仕来たりがありますが、その町割りは古く、平安時代初期(西暦800年頃)に、坂上田村麻呂の次男・坂上廣野麿によって杭全の地が治められ、その息子・当道によって杭全神社が建立された時代にまで遡ります。

当時、坂上家の血筋と、そこからの分家、庶流などによる家筋から荘園自治を行なった『平野七名家』により分割された土地、それが現在の町割りの基本となっています。
特に現在の『平野九町』の内、野堂北組以外は旧平野郷の外側に『新開地』を持っています。

この『新開地』とは、旧平野郷に居住する人達の田畑などが開拓された土地でありました。
現在、旧平野郷の内部には9町の町名は見当たりませんが、内環状線から西側に目を移すと、平野馬場町、西脇、背戸口、流町と、それぞれの町名が割り振られています。
これが、現在の各町の『新開地』と呼ばれるエリアであり、夏祭前の試験曳きや、夏祭当日の7月12日などは、このエリアを各町のだんじりが曳行される風景が見られます。

江戸時代からの道が残る旧平野郷の内側と異なり、戦後に区画整理がされた『新開地』は道幅が広く直線的で、だんじり曳行の風情で言えば旧平野郷の内側より見劣りするのは否めませんが、各町にとっての伝統的な曳行エリアである事に変わりありません。

午前中の曳行を終えた脊戸口町のだんじりは、平野中学校の敷地へ据え置いてしばらくの展示タイム。
午後も1時頃から曳行を再開し、また広大な新開地エリアをくまなく曳行されました。

祭礼本番と変わらぬ勢い、掛け声、雰囲気をキープしたまま曳行は夕刻まで続けられ、雨が降り始めても屋根にシートを被せて曳行されました。

では次回はいよいよ、脊戸口町のだんじり本体を鑑賞していきましょうかね。

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