門真市にも岸和田

エライ事ですねぇ〜、地震の後は大雨と、今年の近畿地方は何かと自然災害に見舞われております。
影響を受けている地域は地震よりもむしろ広範囲でありまして、皆さまお住いの地域に被害などは出ていませんか?
被害に遭われた方々には心からのお見舞いを申し上げるとともに、特別警報の発令されている地域の皆様は、特に命を守る行動をして下さい。
梅雨入り当初、ワタクシは
『梅雨時はしっかりと降ってくれた方が良い』
と、確かに申し上げました。
しかーし!・・・ここまで降ってくれとは申し上げていない!
これ以上被害が広がらない事を祈りつつ、ブログ本編です。
前回、古いネタから片付けてゆくと申した通り、時を3月まで遡ります。(え?そんなに?…)

門真市に『岸和田』という地名があるのをご存知でしょうか?
ここ門真市岸和田にもだんじりが現存しており、今年《大下工務店》にて修復されまして、ご紹介しているお写真は3月18日(日)に町内に搬入されました時のもの。

3月18日(日)と言えば、羽曳野市は古市北町の入魂式が行われた日で、もう遠い昔のような気がしてしまいますね。
ご覧の通り、だんじりは『北河内型(讃良型)』の巨大なもの。

搬入時はこのように、大屋根と本体が別々に運搬され、現地で載せられる形式。

屋根が被さる前の車板、貴重ですよ。

門真市はモチロン『北河内』に分類される地域ですが、現存するだんじりの形態は様々です。
『大阪型』や『住吉型』などに加えて、『神戸型』のだんじりまで現存していて、ちょっと門真市に注目してみて回るだけで、けっこうバラエティに富んだ形態のだんじりが見れると思います。
『北河内』とは言え、厳密には『讃良郡』ではないので、だんじりの形態も混在するのかも知れません。
はい、大屋根が載った状態で車板を見ると、こんな感じね。

製作年代は幕末頃と看られ、大工は不詳ですがまぁ、讃良郡の大工と看て良いでしょう。
彫師は《相野》一門とされています。

『北河内型』のだんじりを手がける彫師は《相野》以外にも《彫清》や《小松》、《服部》などの一門の作品が目に付きますが、彫物の配置となるとだいたい似通っていて、大屋根の車板が龍で小屋根の車板は親子獅子である場合が定番となっています。
製作された年代がほぼ幕末から明治の間に集中している事から、彫物のテーマや配置も似通ったのではないかと考察されます。

まぁそんなお話を展開しながら、小屋根の車板の親子獅子や懸魚の猿と鷲などをを鑑賞して頂いてます。

担い棒を組み、飾り幕をつけた状態はこんな感じ。

さてこの日はまだ入魂式ではないのですが、このまま地域を試験曳きがてら曳行され、やがて小屋のある産須奈神社を目指します。

さてここ、門真市『岸和田』という地名・・・
『車で岸和田を目指して走ってたら門真市に来ちゃいました』
とか
『車で門真へ行こうとしたらそこは岸和田でした』
とか、そんな誰かのネタじゃありませんが、今や『岸和田』と言えば全国的にあの『岸和田』が有名でありまして、世間一般では『だんじり祭り』の代名詞的な地名となった、あの場所。
もともと泉州の『岸和田』は、まだ岡部宜勝が岸和田城を築城するずっと前の南北朝時代、岸村と呼ばれたその地域を、楠木正成の配下であった和田高家が治めた事と、吉野に住む別の和田氏と区別するため
『岸の和田』
が転じて『岸和田』と呼ばれる様になったとされていますが・・・

実はここ門真市の『岸和田』はそれよりも歴史が古く、平安時代まで遡るようです。
いわゆる『荘園制度』の時代にこの地域には、大和田庄や馬伏庄などの荘園と並んで、岸和田庄という荘園もあったそうです。

ここにも『和田』という名称が出てきますが、海も近くないこの地域で『岸』の文字を冠するという事は、かつての時代にこの地域に存在した『河内湖』の名残りではないかと推察されます。
平安時代の河内湖は、おそらくもう『湖』としての沿革は崩れており、あちこちに池となって残っていた時代ではないでしょうか?

さぁ、そんな『知られざる』岸和田の歴史を垣間見たところで、随分な長さの文章となりました。
地域を廻っただんじりは、なかなか狭い参道をすり抜け、神社境内の小屋に収められました。

入魂式とお披露目曳行は、日を改めて4月15日(日)に行なわれました。
それにしても大雨の被害が時間の経過とともに広がる一方ですねぇ。
これから大雨の範囲がかかって来る地域の皆様はくれぐれも警戒を。
そして雨の上がった地域も引き続き土砂災害への警戒を継続して下さい。

明日はまた早朝から岸和田市の宮本町の入魂式をはじめ『だんじり行事』と『夏祭』と『試験曳き』が目白押しですが、参加も見物も両方、くれぐれもご安全にお願いしたいと思います。
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