茶屋のだんぢり漫遊録

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紀州の山あいにまたひとつ・・・




置き去りにして来た6月3日(日)の話題をまだまだ拾いに戻ります。


堺市内各地区のだんじり祭が、平成のだんじり新調ブームに乗って大きく変化したのは、多くのだんじり好きにとっては周知の事実ですが・・・

もうひとつ、特に平成の後半から急激に祭礼の様子が変化した地域があります。


和歌山県の橋本市です。



和歌山県の北部に位置し、高野山への登山口として、また高野街道の宿場町として栄えた町ですが、平成の初期までは山あいの田舎町の雰囲気を残す町でした。

それが平成の中期から後半にかけて、いわゆる『林間田園都市』としての開発が進み、南海高野線の複線化や国道371号線『橋本バイパス』のトンネル開通などで、山あいの田舎町が随分拓けました。

その影響なのか、地域の祭礼にも大きな変化がもたらされました。



それは、泉州地方の活発なだんじり新調により、中古となった岸和田型のだんじりが多数この橋本市内に嫁いで来た事であります。

それにより、現在の橋本市のだんじり祭といえば、岸和田型だんじりによる泉州式の曳行が導入され、市民会館前を中心に活発な遣り廻しが行われる祭に様変わりしました。



元来、橋本市のだんじり祭は現在のような形式ではなく、昔の堺市あたりから嫁いで来たと思われる上地車と、山あいに存在した『担いだんじり』などが繰り出す、ローカル色豊かな祭礼でありました。



この橋本の土地にやってきた『岸和田型』だんじり第1号といえば、岸和田市の中町の先代だんじりである、現・東家のだんじりであります。



それでも、橋本市に現存する岸和田型が東家のだんじりしかなかった時代は、まだ泉州スタイルの曳行ではなかったんですね〜。

岸和田型だんじりによる泉州式の曳行が定着したのは、平成20年前後からだったと思われます。


さて、そんな橋本市にまたひとつ、岸和田型のだんじりが嫁いで来ました。


こちら!



橋本市の中心部から紀ノ川を隔てた南側、ここは清水であります。


このだんじりは昨年まで、和泉市の若樫町にて曳行されていただんじりで、若樫町が現だんじりを堺市の毛穴から購入したのに伴い、昨年5月に昇魂式を行い、ここ清水へと嫁いで来ました。

番号持ちはこの度、《木彫 濱中》濱中浩二 師により彫り替えられたもの。




という訳で、6月3日(日)に入魂式ならびにお披露目曳行が行なわれました。



泉州式の曳行の盛んな橋本市の中心部とは違い、ご覧のような風景。


ここ清水は、村名としての『清水』ではなく清水小学校区の5ケ村合同でこのだんじりを運営しており、小学校の名前から『清水』と名乗っているのだそう。

氏神は学文路天満宮なのですが、入魂式は清水小学校にて行われました。



このだんじり本体に関しては、若樫町のブログのところで触れましたので今回は詳しく述べませんが、昭和33年に『別寅かまぼこ』の社長が個人で新調しただんじりで、大工は植山義正、彫師は木下舜次郎

昭和40年頃から平成の初期まで岸和田市の小松里町にて活躍していたので、ワタクシの世代にとっては、『小松里の先代』のイメージが強いです。



平成に入って『天然温泉クァオルトリバティ』にて展示され、平成15年からは若樫町のだんじりとして活躍していました。

清水にとっての先代だんじりも岸和田型で、平成17年に高石市の東羽衣から購入したものでした。


お写真ではご覧の通り、山あいの地域を曳行するのどかな風景をお届けしていますが、願わくば、遣り廻しなど泉州スタイルの曳行にこだわらず、安全にのんびりと曳いてもらいたいものです。



祭礼本番は10月27日・28日の土日です。

清水の皆さん、この度はだんじり購入に伴う入魂式、おめでとうございます。



このだんじりが地域の宝物として、末永く大切に曳かれます事をお祈りしております。


信濃屋お半悠遊!だんじり録
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