松原市に新たなだんじり

太平洋沖にまたもや台風が発生した模様で、これが来週末にかけてどのような動きをするのか、予断を許さない状況です。
その来週末に祭礼本番を迎える岸和田市の旧市地区と春木地区では、いまだ停電の復旧しない箇所もいくつかあり、献燈台が消えたままの町もあります。
泉州地方を中心とした地域で、思った以上の被害の大きさに、せっかく盛り上がっていた祭気分もすっかりかき消されてしまっていますが、『だんじりの都・岸和田』がこのまま沈黙してしまうとは、どうしても思えないのです。
こんな時だからこそ、岸和田ッ子の底力を信じたいと思っております。
いまこそ踏ん張れ!
さて、ブログの方は過去に戻って長らく拾い集めていた6月3日(日)の話題を、今回で終わらせようと思います。

松原市は阿保(あお)という土地に、新たにだんじりがお目見えした話題をお届けしますね。

この日の午前中は以前のブログでも触れた通り、ワタクシ自身は堺市の深井中町、高石市の富木の入魂式に足を運んでおりまして、午後からの訪問。
阿保では午前中から自治会館にて入魂式ならびに祝賀式典が行われておりまして、お披露目曳行は午後から。

まずだんじり本体のお話からして行きましょうかね。
このだんじりは大東市の西諸福の先代だんじりであります。

西諸福では平成28年に現だんじりを新調したのに伴い、先代だんじりをしばらくの間保存していましたが、今年2月、ここ阿保へと嫁ぐことになりました。
だんじり本体は明治期に製作されたものとされますが、明確な年代や製作大工はハッキリしません。

彫物は《服部》一門ならびに辻田友次郎の手によるものとされており、見送り三枚板はとても見応えある作品。

西諸福の方によると、大正の初期に東大阪の稲田より購入したということですが、稲田のどこの町から嫁いで来たかは不明です。

西諸福で曳行されていた昭和50年代に、《梶内だんぢりや》にて修復された際、屋根廻りの部材などを新調された様で、この直線的な棟の屋根は、見たところ懸魚の形状には合っておらず、願わくば将来、原型に戻す修復がなされれば喜ばしいと思いますけどね。

↑西諸福時代に撮影
続いてはここ、『阿保(あお)』についてお話して行きましょ。
このだんじりの以前にだんじりの歴史があったのかについてはその記述に出会えず、ハッキリした事は分かりません。

『阿保』という地名は、大阪弁を使う地域なら思わず『あほ』と呼んでしまいがちな地名ですが、正しくは『あお』と読みます。

平安時代、平城天皇(へいぜいてんのう)の皇子である『阿保親王(あぼしんのう)』が、当時干ばつで苦しむこの土地に『親王池』を作ったことから『阿保(あぼ)村』と名付けられたのだそう。
その阿保親王の住居跡に建立されたのが、『親王社』で、のちの氏神・阿保神社となります。

阿保の地域の中央、自治会館のすぐ脇に残る海泉池が、かつての親王池ではないかと思われます。

阿保のだんじりの曳行形態は『大阪式』で、いわゆる『大阪系天神囃子』の鳴物で大阪式の舵取りで曳行されます。
秋祭は10月の第2土日ということで、今年は10月6日(土)・7日(日)となっております。

これからこのだんじりを、地域の宝物として末永く大切にされ、祭礼文化が地域に根ざしたものとなるよう、お祈りいたします。

阿保の皆さま、遅ればせながらこの度はおめでとうございます。
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