樹齢900年の楠の木に新しく宿るだんじり

このブログではずっと、過去に置き去りにしてきたネタを拾いに遡ってますが、よくよく考えたら、これぐらいのペースでネタを温存しておかないと、『冬を乗り切る』事が難しいって事に気づいたので、もうこのペースで行く事にします。
ライターにとって『ネタの枯渇』ほどシビアなものはないのでね・・・
これからも時期外れに時期外れな話題をお送りすると思いますが、そこは一緒に時空を遡ってお付き合いください。
さぁ、岸和田祭の前に、宮本町の入魂式の話題をお届けしましたが、季節は7月に遡ります。

西日本に大きな爪痕を残した豪雨が上がり、数日ぶりに晴天が広がった7月8日(日)・・・
早朝から宮本町の入魂式に出かけ、そのまま次の『だんじり行事』の現場に赴いていたワタクシ信濃屋、その現場とは?・・・

都島区・櫻宮の御旅所となる、善源寺町。
善源寺のだんじりがこのほど入れ替わりましてね、その入魂式とお披露目。
お写真をご覧いただいて、ピーンと来た方も居られましょう、生野区は勝五の先代だんじりです。

まずは今回の主役となる、このだんじりのお話から。
明治22年に猪飼野の大工《大熊》永田熊次郎により製作されただんじりで、勝五という名称になる前の『小路村』の初代だんじりとして製作された、『三枚式幕だんじり』。

このだんじりの勝五時代のお話は昨年の年末に、ワタクシ信濃屋の幼少期の話と絡めて、何回かのシリーズでお届けしましたので、今回は省略。
明治20年に製作された猪飼野のだんじりの『残り木』で製作されたとされ、幕式だんじりとは言え、猪飼野のだんじりが如何に上質な木を選んで製作されたかは、このだんじりからも垣間見えるところ。

勝五にて130年近い役目を終えて、新天地であるここ善源寺へと嫁いで来ました。

まだまだ現役バリバリのだんじり。
ここ善源寺の先代だんじりはと言うと、こちら。

やや簡素な造りの屋台だんじりで永年にわたり祭礼を行なって来ており、いつ頃、誰によって製作されたものかは不明です。
おそらく、めちゃめちゃ古くはないでしょう。

飾り提灯の配置は現だんじりにもそのまま引き継がれている感じで、勝五時代からは想像もつかない姿となり、善源寺の色に染まっております。

この日、大規模なお披露目曳行の予定はなかったのですが、御旅所に併設されている小屋へ納める前に、ちょっと周辺をグルっと曳行されたので、そのお写真をご紹介しながら、ここ善源寺のお話をして参りましょう。

現在は正式名称も『櫻宮御旅所』となっているこちら善源寺の八幡宮跡および楠玉神社ですが、その歴史を紐解けばなかなかの由緒を持っています。

かつての昔、『大江山の鬼退治』で有名な源頼光の荘園であったこの地域は『善源寺荘』と呼ばれていました。

頼光がこの場所に、源氏の護り神である八幡宮を建立し、楠の木を植えたとされています。

この楠の木は現在樹齢900年というものですが、もう立ち枯れた状態になっています。
源頼光の四天王の一人であり、この荘園の管理を任されていた渡辺綱が、八幡宮参詣の時に馬を繋いだ事から、『駒繋ぎの楠』と呼ばれています。

大阪府の天然記念物第1号に指定されたものの、戦災に遭い、枯死してしまったとの事。

明治の『神社号司令』により櫻宮に合祀され、以後、櫻宮の御旅所となったそうです。
ちなみに楠玉神社は、かつてこの地の地場産業だった日本製紙・日本板紙の工場に祀られていた『企業内神社』だったのを、工場の閉鎖に伴いこの地に遷座されたものだそうです。

すぐ南に鎮座する『都島神社』は、明治の合祀令の時にもどこにも合祀されずに残っていましたが、なぜ近くの都島神社に合祀されず櫻宮に合祀されたのかは、詳しく分かっていません。

『都島神社』は戦後まで『十五社神社』という名前で、その名の通り『十五の神』を祀っていたので、これ以上祭神が増えては困ると合祀を拒まれたのかも知れませんね。
さて、だんじりの曳行風景を見ながら氏神様の由緒を紐解いて来ましたが、簡素な屋台だんじりから、小振りながらも本だんじりを手に入れて発展を遂げた善源寺。

これからも地域の宝物としてこのだんじりを大切に護って頂ける事を願っています。

この度はだんじり購入、おめでとうございます。
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