茶屋のだんぢり漫遊録

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川俣のだんじりに初対面…ではないけど




前回、東大阪市は楠根地区の、川俣のだんじり大太鼓新調の話題をお届けしましたが・・・

そりゃまぁ、やっぱりだんじり本体の方も鑑賞しときましょうよ…って事で、今回はだんじり本体編です。



大太鼓のお披露目が行われた日は7月22日(日)という夏祭シーズンでしたが、川俣の祭礼は秋祭のみで、祭礼日は次の月曜日、つまり10月29日にわたって行われます。

平日ですが、見に行かれるならチャンスですよ!




そんな現在の川俣のだんじりは三代目といわれており、平成24年(2012年)に守口市八雲の『八番』から購入されたものです。

町名が『八番』。

川俣で曳行するに際し、平野区喜連の《大市》河合工務店にて修復が施され、洗いや彫物の追加、欠け継ぎ、さらに柱を30cmほど切り縮めて、現在の背格好に改められています。




八番では明治の初期に天王寺方面より購入したという、いわゆる『仕入れだんじり』で、大工は不詳です。




以前に何かのブログで触れた事がありますが、天王寺方面の大工と言えば、《金剛組》が束ねる巨大な大工組織が存在しました。

四天王寺のみならず、熊野街道に面した谷町筋周辺には無数の寺院があり、数多くの堂営大工が居住していた明治の頃、だんじりの製作を請け負っていた大工も複数名存在したであろう事を推察をしています。

しかし、当時の大工は巨大な組織の一員であった事が理由なのかどうか分かりませんが、自分の製作しただんじりに銘を残す事はあまりなかったとされ、明治期に製作されただんじりは、大工名の不詳なだんじりが無数に存在します。




モチロン大工の方も住吉の《大佐》をはじめ、個人で大工業を営んでいた工匠は屋号を表に出しており、それらの大工が製作しただんじりは、大工名が判明しているものも多々あります。


また現在はだんじりの新調は大工(工務店)が窓口となって請け負い、大工の方から彫師へ発注がなされますが、明治の頃は《大佐》などの大工以外に、もしかしたら彫師がだんじりの新調を請け負い、大工を逆指名していた場合もあると思われるんですよね。

だから《相野》や《小松》や《彫清》といった彫師たちは屋号の看板を掲げ、請け負った作品に銘を残す例も多々あるのです。



いずれにせよ、こちら川俣のだんじりの製作大工はハッキリしません。
こうしただんじりは他にも無数にあります。




彫師は《彫清》一門と、一部で《和泉彫》の平間勝利の手が入っていると思われます。



だんじり彫刻に多く名を残す《平間勝利》師は二代目とされ、初代・平間勝利の跡目息子として小豆島に生まれ、実父より彫刻の基礎を学び、その後《和泉彫》二代目・高松彦四郎(安田卯ノ丸)に弟子入りしたとされています。



《和泉彫》の流れを汲む彫師ですが、大阪の天王寺界隈に居住していたと言われており、この川俣(守口市八雲八番先代)以外にも同じく守口市の八雲南の先代、神戸市東灘区の西青木など、摂津方面のだんじりに作品を多く残しています



お話を進めながら彫物の写真をご紹介していますが、平間師は人物系よりも花鳥ものが得意とされており、これら懸魚や三枚板、隅障子などの彫物を見るにつけ、平間師、彫清一門の他に、まだ誰か他の彫師の手が入っていないかと思ったりするんですけど、如何ですかね?・・・






いずれにせよ、まだ今年の祭礼に間に合うだんじりですので、週明け月曜日はここ、東大阪市川俣へ足を運んでみるのも良いかも知れません。




前回の大太鼓のお披露目から引き続き、川俣のだんじりをご紹介しました。


 


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