茶屋のだんぢり漫遊録

目次

江戸時代のだんじり、まだまだ現役で!




前回は11月4日(日)に行われた堺市は鳳地区の野代のだんじりについてご紹介しましたが・・・


この流れでもう1台、長年にわたり活躍した場所を今年で旅立ち、また新たな場所へと嫁いだだんじりをご紹介しときましょう。



城東区は諏訪のだんじり


ちょいと前のブログで『柏原駅前パレード』についてご紹介した時に、少し触れたのを覚えておいででしょうか?

そう来年からは、柏原市の大正東のだんじりとして活躍する事になる諏訪のだんじりの、お別れ曳行の模様をお届け致しましょう。




11月23日(金祝)・・・

正午に神社を出発した諏訪のだんじりは、慣れ親しんだ町へと繰り出しました。




城東区の一番東の端に位置する諏訪。中でも氏神となる諏訪神社は、本当に城東区の東の端の端に鎮座しており、表の道は東大阪市との境界線で、向かい側は森河内という土地。

明治の初め頃までは『左専道村』と呼ばれ、『左専道』とは諏訪神社の前を南北に通る道のことで、一般的には『放出街道』と呼ばれていますが、正式には守口から高野山へと繋がる『中高野街道』であります。




現在では『城東地車聯合』の一角を成す諏訪のだんじりですが、その地場の歴史は他の城東各町とは一線を画すもの。

だんじり曳行の姿も、その土地柄に裏付けされた独特の雰囲気を持っています。


さて今回お別れ曳行を迎えた諏訪のだんじり、その製作は幕末にまで遡り、慶応年間(1865年〜1869年)に、本庄村(現在の東成区中本)にて新調されたもの。



見送り三枚板は『火燈窓』式で、幕末頃の製作の面影を残しており、大工は不詳ながら、彫師は長谷川一太郎と言われています。



昭和32年、中本の現だんじり新調に伴い、ここ諏訪が購入。

平成2年に岸和田の《吉為工務店》にて大改修した際、彫物以外のすべての部材と、大屋根正面の獅噛みを新調したため、そのシルエットは製作当時のものから大きく姿を変えましたが、幕末から大切に守り抜かせれてきただんじりに変わりはありません。



大改修前は屋根の形が『大きな山形』と表現すれば良いのか、両側の軒は下がり屋根で、棟の『むくり』が非常に大きく、鶴見区の中茶屋もしくは生野区の腹見などのだんじりと似通った形状の屋根でした。


↑鶴見区・中茶屋(修復前)


↑生野区・腹見



平成19年には『諏訪地車50周年記念祭』を行い、また平成25年には中本の八王子神社夏祭の日に中本までの里帰り曳行を行い、かつての氏神であった八王子神社へ56年ぶりの宮入りも果たしました。



そうして61年にわたり諏訪にて活躍してきただんじりも、来年に新調だんじり完成を控え、この日のお役御免を迎えたという訳です。

諏訪の村中を比較的くまなく回り、懐かしい町並みに別れを告げることとなったお別れ曳行は、夕方5時頃に無事終了。




諏訪のだんじり小屋は神社の敷地内にあり、境内に向けて扉がありますが、だんじりの出し入れは小屋の後ろの道路からで、神社へ向けて前向きに入庫させます。



だんじりの三方はプラットホームで囲まれ、まるで京都の嵐電の四条大宮の駅を彷彿とさせる造りになっていて、これも珍しい小屋だと言えるでしょう。


また『昇魂式』は年明け2月頃に予定されており、それを経て正式に柏原市大正東へと嫁いで行きます。




また新しい土地でも愛され、この幕末のだんじりがまだまだ現役で長く活躍される事を願っています。

 

信濃屋お半悠遊!だんじり録
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