ドシャ降りの入魂式 in 九月《其之弐》

昨年9月9日(日)に行われた修復だんじりの入魂式で、手元にお写真が届いてるのが前回ご紹介した高石市の元町と、今回ご紹介する堺市は久世地区の東八田です。

東八田の現だんじりが新調されたのは平成2年。
大工は《天野工務店》で、彫師は中山慶春 師。
堺市内のだんじりについてお話する時に、毎度のことになりますが、昭和の終わり頃から平成初期にかけての過渡期の事は避けて通れないものになります。
現在の堺市内の祭礼の形態に移り変わる時期を、僕なんかは目の当たりにしてきた・・・というか、その時期に青春時代を過ごして来たので、その当時の記憶ってのが今も色濃く残っとるんですな。

今年、いよいよ平成が終わりを迎える時に、ちょうど平成の初期に製作されただんじりと対面すると、あの当時から今日までの『平成』という時間を、あらためて回想せずにはおれなくなります。

ここ東八田の先代だんじりは『上地車』で、幕末から明治初期頃に製作されたと思われる『堺型』。
現在のような遣り廻し主体の祭礼ではなく、現在の野々宮神社の宮入りにその面影が残っているように、だんじりを前進後退させたり、交差点などでは転回させたり、そうした祭礼からの脱却を図り『岸和田型』を新調する・・・昭和の終わり頃から平成初期への堺市内の祭礼は、各地区ともこぞってそうした動きの渦中にあったのであります。

そうした東八田の先代だんじり、大工は《堺のだんじり大工》となっていて、彫師は《彫又》一門とされているものですが、一部で《辻田》或いは《服部》などの説もあります。
が、現在は大阪市北区の綱敷天神社の宮付地車として境内の小屋にて保存されており、見る事が出来ません。
『堺型』のだんじりには、確かに《彫又》一門の作品が多いのですが、それらの中に《辻田》や《服部》など違った一門の作品も混在しており、また1台のだんじりの中にも一部の部材で手の違う作品が混ざっている場合などもあり、一概には言い切れないものでもあります。
またそれは『堺型』に限らず、幕末から明治期にかけて製作された各地のだんじりには、そうした傾向が顕著に見られます。
明治の頃、彫師の一門同士で仕事を分け合っていたり、協力体制であったり、そうしたやり取りが成されていた事が窺い知れる事柄でもあります。

またその昔、隣接する八田北村(現在の八田北町)は『東』と『新在家』のふたつの字に分かれていてそれぞれにだんじりを所有しており、ある年、東八田が北村の『東』と喧嘩になり、だんじりを壊されてしまった代償として、『東』のだんじりを譲り受けたというエピソードがあり、そのだんじりが東八田の先代だんじりではないかという説がありますが、それは定かではありません。

さてお写真でご紹介している入魂式の様子は、午前6時半過ぎに町内を出発しまして、八田荘地区の堀上町の町内を経由して氏神・野々宮神社へと向かう道中です。

この時間帯は晴れ。
しかし道路は濡れていて、雨上がりの様子。
広い範囲で本降りの雨となったのはこの後の時間帯と思われます。

諸事情によりこの日、遣り廻しは行われませんでしたが、無事に神事を済ませ、町内をお披露目して回りました。

祭礼日は10月の第1土日という事で、今年は10月5日・6日になります。
かつて試験曳きの日に於いて、隣接する八田荘地区の4台と、久世地区からは東八田と小阪の計6台で合同曳行が行われていましたが、八田荘地区の祭礼日変更に伴い、現在はその6台による合同曳行は見られないものになっています。

昭和の終わりから平成初期にかけて大きく変化した堺市内の祭礼ですが、平成の終わりから次の元号の時代にかけて、今度はそうした日程変更による新たな変化が、また堺市内に訪れるのでしょうか?

今回は東八田の入魂式の話題から、少し話を拡げてみました。
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