2018年の新調だんじり《南河内編》

5月1日の新天皇即位の日から改められる元号が発表になりましたねー。
『令和(れいわ)』
だそうです。
最初の発表の時、ワタクシもテレビの前でその瞬間を待っていたのですが、菅官房長官が最初、ボードを出す前に『れいわ』と発音した時に『めいわ』と聞こえてしまい、
『え?その元号、過去にもあるで…』
と思ったら『令和』でした。
その後の菅官房長官の説明も、午後から行われた安倍総理の談話も、何度聞いても『めいわ』に聞こえてしまい、『ラ行』の発音が最初に来ると、なかなか聞き取りにくい事に気付いてしまいましたね〜。
なにはともあれ、5月1日からは『令和元年』となります。
その幕開けを告げる阪神間のだんじりが一堂に会する『奉祝記念行事』まで、あと1ヶ月を切りましたねぇ。
正真正銘の『平成最後』となる今月も、だんじり行事は行われます。
皆さまにおかれましても、平成最後の1ヶ月を、存分に味わってお過ごし下さいませ・・・。
ほなさいなら。
・・・てゆー訳にも行かないのでブログの更新と参りましょう。
前回は今年行われたネタをお送りしたので、また今回は過去の未報告ネタに戻ります。
昨年完成した新調だんじりという事で、和泉市・府中地区の馬場之町をご紹介しましたので、続きましてご紹介するのはこちら!

富田林市の、若一(若松一丁目)のだんじりでございます。
昨年9月23日(日)に入魂式ならびにお披露目曳行が行われたもの。
お写真をご紹介しながら順にお話して行こうかとおもうのですが、こちらはまず、当日の朝7時前に、工務店より搬入されてきたところ。

だんしりは後ろ向きにトラックに積み込まれており、現地にて降ろされてから、大屋根を取り付ける作業となります。

新調を請け負た大工は《地車製作 隆匠》田中隆治 棟梁。
彫師は平成28年に《木彫 近藤》から独立し、地元・忠岡町に《木彫 濱中》の看板を掲げた若手彫師、濱中浩二 師であります。

ワタクシ自身、この日は別の場所へ赴いており、この場には足を運んでおりません。
なので手元に届けられたお写真だけを頼りに文章を書き起こしておりますので、その点だけご容赦を。
こちらのお写真は大工棟梁・田中師から引き渡し式の模様。

こちら若一(若松一丁目)の先代だんじりについては以前にも取り上げましたかね?
『石川型』の中でもとりわけ年代物のだんじりで、製作年代などは不詳ながら、若一が購入してからも140年にわたり曳かれていたものでした。

その140年前は現在の『若松』という地名ではなく、かつてこの若一の法被に染め抜かれていた『富田』の文字が物語っている通り、富田林市の名称の由来となった『富田林村』だったのであります。

そしてその由来は、かつて文久年間に石川の流域の丘陵を『富田が芝』と呼んでいた事にあると聞いています。
そんな、富田林市の中心地とも言える若一の先代だんじりは、明治から平成の時代までを駆け抜け、村の宝物として長い年月にわたり大切にされてきました。

また『横しゃくり』で知られる南河内のだんじりにあって、だんじりを前後にしゃくる『縦しゃくり』を行う町としても知られ、その曳行スタイルも含めて存在感のあるものでした。
そんな長きにわたり活躍した先代だんじりに代わって新調されただんじりは、平成最後の年に新調された『石川型』と呼ばれるにふさわしいものとなっています。

例によって細部にまで写されたお写真がないため、当日の風景だけをご覧頂いておりますが、入魂式に続いての記念式典では、田中隆治 棟梁、ならびに濱中浩二 師それぞれに感謝状が贈呈され、その感謝の意を表しておりました。

午後からは待ちに待ったお披露目曳行。

『石川型』だんじり特有の舞台となる場所に田中・濱中 両師を乗せ、南河内名物の『曳き唄』は参加者全員による地声で唄われ、これはこれで普段の祭礼では味わえない雰囲気となりました。

夕刻まで地域を曳行され、お披露目曳行は無事に終了。
すでにその年の祭礼本番も無事に終えております。

なお、先代だんじりは縁あって高野山の麓に近い、和歌山県かつらぎ町の、大字佐野へ嫁いでいます。
3月24日(日)にお披露目も済まされたそうです。

若一の新調だんじりも、そして嫁いだ先代だんじりも、それぞれの地でともに末永く宝物として愛され、大切にされます事を切に祈っております。
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