茶屋のだんぢり漫遊録

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四百年の時を越え、尼崎城現る!




ブログの文章を構築するために『尼崎城』について調べてみると、色々と面白いことが判明して、飽きませんねぇ。

特に、現在の地形と当時のお城の城郭とを重ね合わせてみたり、その歴史を紐解いてみたり、全然だんじりとは関係ないところで、色々と興味の尽きない発見がありました。



それらすべてをブログに反映はさせられないけど、今回はこの尼崎城と、尼崎のだんじりとを絡め合わせてお話ししてゆこうと思います。


僕自身、尼崎にお城があった事を知ってから、恥ずかしながらまだ15年に満たなないのです。

もう20年も前は尼崎競艇場でレース中継のカメラマンの仕事をしていたにも関わらずに。


確か、尼崎城の城主から最初にだんじりを曳く許可を得たのが中在家だった・・・という文言を聞いた時に、かつて尼崎にお城が存在した事を知ったのだと思います。



それから改めて地図を広げ、城下町としての町の輪郭を把握し、尼崎へだんじりを見に来た時に、かつてお城のあった場所などを実際に訪ね、そんな事を積み重ねて尼崎城のことを学んで行きました。


そんな尼崎城の築城から400年を迎えた昨年、尼崎になんと、お城の天守閣が出現したんです!



行政によるお城の復元事業とかではなく、個人の資産家の私財による復元であると聞いて驚きましたね〜。

尼崎市の出身で、現在の『エディオン』の創始者である安保詮 氏が、地元に恩返しをしたいとの思いで建造したのが、昨年完成した『模擬天守閣』であります。

で、今年3月29日(金)〜31日(日)までの3日間、この復元された尼崎城の一般公開を記念して、『尼崎城オープンイベント』が開催され、3日間を通して、尼崎のだんじりが参加、展示されました。


初日となった3月29日(金)は、貴布祢神社氏地から西町と新三和の2台が、翌30日(土)は同じく貴布祢神社氏地から北出、中在家、西櫻木、御園の4台が参加。



そして31日(日)は築地地区から本五、大官町、南浜、小嶋の4台が参加し、新しい尼崎城のオープンをお祝いしました。


僕は初日と二日目は都合がつかなかったので、3日目である3月31日(日)に足を運んで来ました。

とりあえず朝・・・


当ブログには何度となく登場している、築地地区の共同小屋。



この度の尼崎城復元を機に、この共同小屋の壁面に尼崎城のイラストが描かれ、先だってその除幕式も行なわれたと、何かのニュースで知りました。

ここから本五、大官町、そして3月の始めに修復完了に伴う入魂式を執り行った南濱のだんじりが出発します。




1台だけ自町内に小屋を持つ小嶋も、午前9時を回って出発。



地区の真ん中の交差点で合流します。

このまま『山合わせ』が行えそうな雰囲気を醸しながら、顔合わせしただんじり同士が手打ちを交わします。



祭礼本番に比べれば参加人数も少なめではありますが、尼崎のだんじりの持つ独特の雰囲気は健在といったところですかね。


ここから4台のだんじりが庄下川にかかる『築地城内橋』を渡り、列となって尼崎城を目指します。




現在、尼崎城が再現された『城跡公園』は、阪神尼崎駅の南東側、住所の区割りで言うと『北城内』と呼ばれる区割りにあります。

そして、『北城内』があれば『南城内』もあるって事で、住所区割りの南城内には現在、尼崎市立明城小学校があり、その南側に『尼崎城趾』の石碑が建てられています。



かつてはこの付近に、尼崎城の本丸があった模様。


ちなみにこの場所は現在、尼崎の寺内町にどっしりと腰を据える本興寺の、元々の場所であったと言われ、現在の本興寺は尼崎城築城に伴い、現在の場所に移築されたそうです。



そんな旧・尼崎城が築城された元和3年(1617年)、譜代大名である初代城主・戸田氏鉄が5万石で入封した当時の尼崎城は、南側を海に面しており、船をそのまま横付け出来たとあり、海に浮かぶ城の様に見えた事から、別名『琴浦城』と名付けられたそう。



築地地区の北側を流れる『庄下川』は元々、旧・尼崎城の南に面した海であり、築地地区はその名の通り、埋め立てで築かれた『出島』の様な土地であり、人工の城下町なのであります。



文字通り、江戸の築地や長崎の出島と同じような役割を果たしていたのでありましょう。


なので今回、築地地区のだんじりが連なって尼崎城へと駆けつける様は、今は亡き城主への感謝の意を表す様にも見えたりします。



会場となる城跡公園にそびえる『模擬天守』。
その前にバルーン天守もコラボしていて、どっちがどっちか見分けがつかなかったりします。



その前を築地地区のだんじりが駆け抜け、会場内に揃い踏み致しました。



岸和田でもそう、『地車 in 大阪城』でもそうですが、やっぱり『お城とだんじり』っちゅーのは、絵になるモンですなぁ。



4台のだんじりは、イベント開催中はこの場所に据え置かれて展示されますので、ワタクシはここまでを見て、旭区へと移動しました。


再び尼崎に戻ってきたのは、イベントを終え、だんじりが各小屋へと戻り始める午後4時。



午前中の晴天が嘘のように曇り、パラパラと雨粒が落ちて来ております。

そんな中を、4台のだんじりは城跡公園を出発し、地元への帰路につきます。



旧・尼崎城の藩主は、築城から廃城までの間に3氏12代が入れ替わっていますが、一貫して幕府から尼崎藩に命ぜられていた密命の中に、岸和田藩と相互協力し、大坂に留まらせている豊臣家の子孫が不穏な動きをせぬよう、見張っておくというものがあったと言われており、岸和田藩の藩主・岡部氏も譜代大名であり、ともに徳川家の密命を受けていたとの言い伝えがあります。



城下町にだんじり祭を持つ二つの藩が、一見すれば接点はなさそうに見えながら、実は共通した役割を担っていたかも知れないというのも、面白い話ではありませんか。


さて4台のだんじりは旧・尼崎城の内濠・庄下川にかかる『築地城内橋』を越え、再び築地へと戻って来ました。



先頭を行く小嶋は早々に入庫しましたが、小屋を共にする他の3台は時折パラつく雨の中、時間の許す限り少し曳行を続けていました。


向かい合わせて、少し名残り惜しげに手打ちを交わすだんじり。




納得したかのように1台、また1台と小屋に収まり、3日間にわたり行われた尼崎城オープンを祝うイベントは、無事に幕を下ろしました。




各町の皆さん、肌寒い中のだんじり曳行、お疲れさま。

まだ9月の祭礼まで半年ほどありますね・・・。


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