茶屋のだんぢり漫遊録

目次

司馬遼太郎の『河内みち』から紐解く・・・《其之壱》


1923年(大正12年)に大阪が生んだノンフィクション作家司馬遼太郎をご存知の方は多いだろう。


↑司馬遼太郎

彼は現在の大阪市浪速区に生まれ、少年時代は読書に明け暮れ、戦時中から前後にかけて趣味で小説を書き始める。
戦争の経験から歴史に傾倒し、また大阪で新聞記者として働きながら、エッセイや小説を書く日々であったという。



そんな彼は1959年(昭和34年)に発表した『梟の城』で直木賞を受賞して作家としてブレイクするが、彼の名を不動のものにしたのは、その3年後に発表した『竜馬がゆく』であったに違いない。



歴史の解釈の上では諸説交錯する坂本龍馬を、幕末から明治維新にかけてのヒーローとして描き、その人物像が多くの人の心を捉え、何度となくドラマ化された結果、現代まで脈々と続く世間一般の龍馬のイメージとして定着した。



そんな司馬遼太郎が、昭和46年からライフワークとして週刊朝日に連載していたものに、紀行エッセイ『街道をゆく』がある。



そのシリーズ45に、『河内みち』があり、その中に登場するのが、東大阪市は若江鏡神社の秋祭に曳行される『ダンジリ』である。




僕は別にその書物を読んだわけではなく、その書物をもとにNHKが番組として制作した『司馬遼太郎・街道を行く』を見て知ったのである。


彼は長らく大阪市南区(現在の中央区)の道頓堀の近くに居住していたが、昭和39年に現在の東大阪市下小阪に移り住む
最寄駅は近鉄奈良線の八戸ノ里。

結果としてそこが彼にとって終の住処となり、現在は『司馬遼太郎記念館』として残されている。


この東大阪市(当時はまだ布施市)に移り住んだのち、知人の誘いで若江鏡神社の秋祭に出会い、だんじり祭を目にするのである。



昭和42年に布施市、河内市、枚岡市が合併して『東大阪市』が誕生しているので、司馬遼太郎が若江のだんじりを見たのは、その過渡期の時期と思われる。

モチロン、若江地区は河内市であった。




現在、時代は『平成』から『令和』へと変わろうとしており、そんな時代の流れとともに、各地の『だんじり祭』もさまざまな変遷を遂げて来ているが・・・

ここ若江地区のだんじり祭は、司馬遼太郎が見た昭和40年代の前半から現代まで、ほとんど変化していないのではないだろうか?
強いて言うなら女性の参加者が増えたぐらいだろうか?・・・



ここまで昨年の若江鏡神社の祭礼写真をご紹介しながらブログを進めているが、実は僕自身、2000年代前半は毎年この若江の秋祭を撮影している時期があった。

その時と比べても、現在の若江の祭礼風景はほとんど変わらない。

若江南部のだんじりが平成19年に入れ替わったぐらいだ。



司馬遼太郎が見ていた頃と較べれば、平成7年に若江西部のだんじりが入れ替わったぐらいで、祭礼の中身というか、曳行風景や雰囲気は、ほとんど何も変わってないと言っても間違いではないと思われる。

時代とともに変化するしないを、良し悪しで論じている訳ではない。
『不変的である』として受け止めてほしい。


そう言えば僕が若江の祭を毎年撮影していた頃、とある知り合いに
『ここが昔から変わらん、ホンマの河内のだんじり曳きやさかいなー』
と言われた言葉は今も耳に残っている。



『ホンマの河内のだんじり曳き』

という言葉が、どれだけ奥深い言葉であったか身に染みて分かるのは、北から南まで縦に長い河内地方に於いて、土地柄によって分布する多種多様な祭礼を目の当たりにする事になってからであった。


『ホンマの河内の・・・』

この場合の『河内』が、どの『河内』を意味しているのかはピンと来にくいが、少なくとも北河内や南河内を含めてはなさそうなニュアンスだけは伝わってくる。

すなわち、南北に長い河内地方の中でも、ひときわ『河内くさい地域』である、ここ『中河内』のことを指しているのであろう。



それとも、もしかしたら『旧・河内市』の事を指していた可能性もあるけれど。

いずれにせよ、河内にだんじり祭は数あれど、『河内のだんじり曳き』の見本といえば若江であり、若江の祭礼風景こそ、昔から変わらん河内の祭の姿・・・という意味なのであろう。



↑東部(東之町)のだんじりは現在《大下工務店》にて修復中。
提灯の『見郷之町』については調べたが出てこなかった。



そんな若江の祭礼風景を見た司馬遼太郎の感想は、だんじりの専門家ではない人で、なおかつ様々な事象を文章に書き起こしてきた人の、『物事を瞬時に見抜く目』によって導き出された感想そのものであった。



その中で、『醜男』という言葉が出てくる。

『醜い男』と書いて『しこお』と読むが、これは別に悪い意味でも、見下げた意味でもない。

もとは『万葉言葉』であり、意味は『強くたくましい男』となる。
言い換えれば、『勇猛果敢で猛々しい男』とも言える。



つまり、だんじりとともに駆け抜け、舵を取り、屋根の上で飛び跳ねる若衆は、強くてたくましい、言わば男らしさを存分に発揮しているという意味で使われている。



ちょうど昭和40年代に入った頃といえば、どこの祭も衰退傾向を見せていた時代で、そんな中でも、ここ若江の祭礼は勇猛果敢さを失わず、荒々しい河内の男衆の気質を存分に発揮していたのであろう。

ベストセラー作家・司馬遼太郎の心を鷲掴みにするだけの、ほとばしる情熱が感じられたに違いない。



さて、次回はその司馬遼太郎の『河内みち』の本文を参照しながら、若江のだんじりと、それを取り巻く様々な情景をどういう心情で書き綴っていたのかを、検証してみたいと思う。


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