司馬遼太郎の『河内みち』から紐解く・・・《其之弐》

まさか昨年の東大阪市は若江地区の祭礼写真をもとに、2編のブログが書けるとは思ってなかったのだが、ここ最近になって見返したNHKの『司馬遼太郎・街道をゆく』のシリーズ『河内みち』があまりに面白く、また興味深かった。

今から10年以上も前に見た番組だったが、今見返してみると、様々な新たな発見があったりするのである。
そこで今回《其之弐》として、『河内みち』に書き残された司馬遼太郎の文章を読み解きながら、彼の心情に寄り添ってみようと思う。
なお、以下に紹介する司馬遼太郎の文章は、NHKの番組内で朗読されているものを僕が聞いたままに書き起こしたものなので、漢字の当て方や句読点の位置などは、原文と異なる場合があることを先に申し上げておく。

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『街道をゆく 41 〜河内みち〜』 司馬遼太郎
私は、大阪の雑踏が好きで、以前、道頓堀の灯りが遥か東の空に浮かぶ市中に住んでいて、適当に喧騒で、適当にドブ臭い。しかも適当に空気が汚れていて、それらのすべてが私の住み心地を良くしていた。
処が、書籍の置き場所に困って、移転せざるを得なかった。・・・
(解説)↓↓↓↓
この文面から推察するに、司馬遼太郎は大阪市南区あたりに在住していた事が分かる。
生まれは現在の浪速区塩草であるが、当時は南区難波西神田町という町名だった。
戦後、彼が成人してからも元々の生家に居住していたかどうかは分からない。
が、道頓堀の灯りが東の空に浮かぶという事は、道頓堀の西側に居住していたと推察できる。
塩草よりも少し北の方、すなわち湊町から幸町辺りではなかったかと解釈することも可能ではないだろうか?
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旧分國で言えば、今の大阪市は摂津国(せっつのくに)である。
残念ながら、私の家は摂津国には入らない。
そこから東へ少しはみ出して、河内国(かわちのくに)に入り込んでしまった処に所在する。
私の家近くの駅の名は河内八戸ノ里で、河内がつく。
東京から嫁入りして来た近所の奥さんが
『とうとう河内まで落ちて来たかと思いますと、情けないやら悲しいやらで…』
と、私に落魄(らくはく)の思いを披露されたが、先住者の私に向かって、少し正直すぎる感想の様にも思われた。・・・
(解説)↓↓↓↓
旧分國・・・すなわち現在のだんじり界でも頻繁に使われる『摂河泉』の国分けのこと。
司馬遼太郎は元より大阪の雑然とした雰囲気が好きで、少々気質の荒い河内の人達との暮らしも、別に嫌ではなかった様である。

その司馬遼太郎に対して、東京から嫁いで来られた近所の奥様の物言いはまるで『都落ち』の様であり、
『河内なんかに嫁いで来るとは人生も終わりだ』
みたいな雰囲気が伝わる。
ちなみに『落魄』とは『ひどく落ちぶれるさま』という意味で、華やかな都心部から、大阪の河内くんだりに移り住むというのは、正に『都落ち』のイメージで見ている人が多かったという事なのだろう。
世間一般の人から見て、河内という地域はそんな目で見られていたのである。
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何しろ河内と言えば、今東光(こん とうこう)氏の『河内モノ』の世界である。
今氏は河内の村々に住む庶民たちの、滑稽さやガラの悪さを広く世間に紹介した。
(解説)↓↓↓↓
今東光(こん とうこう)は明治30年に横浜で生まれ、昭和期に小説家として活躍した天台宗の僧侶。
寺の住職として居住した八尾市を舞台に『河内シリーズ』の作品を多く世に送り出し、その中で、河内の人達の生態を描いていた。
司馬遼太郎は文中、今東光の『河内シリーズ』の事を『河内モノ』と表現している。
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『ダンジリ、欲しいっちゅうよりまんねん』
と言うのは、私の近所でタクシーの運転手をしているM君の言葉である。
M君の村は、ひとつの氏神を三つの字が護持している。そのうち二つの字にはそれぞれ立派なダンジリがあるが、M君の村にはダンジリがなく、自分の字にもダンジリが欲しいと思った。M君もその1人であった。』
(解説)↓↓↓↓
この文中に出てくるだんじりは若江南部のだんじりで、現だんじりから見て先代に当たり、昭和40年代前半は傷みにより曳行を休止していた様である。

↑これは現・南部のだんじり
昭和23年頃に岸和田は春木の業者(?)から購入した堺型のだんじりで、泉大津市の下之町の先代だんじりを購入する平成19年まで、若江南部のだんじりとして活躍した。
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『村の大工があっちゃこっちゃに木を入れて、一年ががりで直しよりましてん。』
M君の字は5〜60軒ほどだから、1軒について10万円程の負担をした事になる。
そこが河内気質で、ダンジリという他愛もない遊び道具にこれだけのエネルギーをかけるというのは、可憐な程である。・・・
(解説)↓↓↓↓
当時、上地車を所有する地域がだんじりを修復するとなれば、《梶内だんぢりや》か《太鼓正》へ出すというのが相場で、まだ岸和田の工務店がそれらのだんじりを修復するのは稀だった。
また業者に出す程の資金がない場合などは、地元の大工がだんじりを修復した。
そんな時代のお話。

『ダンジリ…という、他愛もない遊び道具』
僕が一番耳を引っ張られた言葉は正にこれで、昨今、だんじりは村の宝物だの、財産だのと言われて久しく、どこの地域もだんじりを大切にする事が浸透しているけれど、昭和40年代当時、だんじりなど、本当に世間一般の人から見れば『他愛もない遊び道具』だったのである。
いや、現代でもだんじりは『神事』とは異なる立ち位置にあり、民衆のお祭り騒ぎのために曳き出される『神賑わい』のものである事を考えると、『遊び道具』である事に変わりはない。

だんじり愛好家の皆さんは老若男女問わず、ほとばしる熱い情熱をだんじりに傾けるが、世間一般から目には、それは荒唐無稽とまでは言わないまでも、『他愛もない遊び』と映っても仕方のない事なのかも知れない。

大切なことを追加しておくと、こうした『河内気質』を司馬遼太郎は『可憐』と表現しているが、これは一見すると荒ったく、近寄りがたそうな河内の男たちの中に見え隠れする『可愛いらしさ』を言い表しており、だんじりに携わる時のひたむきさを通じて、河内の人たちの憎めなさを比喩しているように思う。
さて、この後『河内みち』は河内の歴史に触れ、江戸時代に大和川の付け替え工事に人生を捧げた中甚兵衛について書き記している。
さらに、南河内に目を移し、高貴寺、弘川寺、大ケ塚などに触れ、南河内の歴史的偉人で、だんじり彫刻にも多く登場する楠木正成にも言及する。
明治から大正にかけて新調されただんじりになぜ楠木正成が多く彫られたか、そのヒントになる様な記述もあったが、今回このブログでは触れずに若江のだんじりの記述まで端折る事にする。
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『一昨年(おととし)の夏、日が暮れてから出かけてみたところ、全く仰天してしまった。
日本中の祭という祭が、エネルギーの大放鷹という祭の本質を失ってしまっているというに、この若江村の祭りばかりは、全村が闇の中で集団発狂してしまっているのではないかと思われる程に、伝統的である。・・・』
(解説)↓↓↓↓
昭和40年代、若江の祭礼は『夏祭』だったのか?
現在、若江鏡神社の祭礼は10月10日・11日の日程固定で、平日であってもこの日取りで行われている。

たしかに非常に『夏祭』的な雰囲気を持つ若江の祭礼であるが、夏に曳行していたかどうかは調査の必要あり。
それにしても『集団発狂』とは面白い表現である。
普段は気さくな若い兄ちゃんや、ニコやかなおっちゃんらが、いざだんじりに乗り込んだら鬼のような形相で大声をあげ、周囲を威圧し、暴れ倒している。

そのさまは司馬遼太郎の目に、『いったい何事?』という風に映ったのではないか?

『日本中の祭という祭が本質を失ってしまっているというのに・・・』
このブログでも何度も触れている、高度経済成長期における各地の祭礼の衰退は、昭和40年代が最も顕著であったと思われる。
そんな時代にあっても、活力を失わずに継続した祭礼はモチロン若江地区だけではない。
岸和田はモチロンのこと、堺市であれば鳳、大阪市内であれば平野区の杭全神社、そして福島区の海老江なども昭和の衰退期に祭を途絶えさせなかった地域である。
ただ、ベストセラー作家である司馬遼太郎が、それら各地のだんじり祭の中でも、たまたま居住した地域のすぐ近くで、これだけエネルギーの爆発の伴う祭に出会えているのは誠に奇跡的な縁であると言える。

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『宮造りのダンジリの屋根には5〜6人の若衆が載っている。
それらが白ネルの腰巻を巻いて絶叫し、足をふみ鳴らし、そのだんじりに神威を与えようと鼓舞し、対向してやってくる相手方のダンジリを、その狂態をもって圧倒しようとしている姿が、どう見ても万葉語で言う『醜男(しこお)』そのままである。
(解説)↓↓↓↓
この文節は、若江のだんじり祭の様子をよく表現している。

白ネルの腰巻を巻いて・・・という記述からも分かる通り、若江の祭礼は現在でも白ネルの腰巻姿の若衆が多い。
時代とともにバッチ姿の参加者も増えつつあるが、出来ればこの昔ながらのスタイルを大切に守り伝えて欲しいと願う。

ここで登場するのが『醜男(しこお)』という表現。
だんじりに酔いしれ、血気盛んに大声を張り上げる若衆をして『醜男』と呼ぶは、正に言い当てて妙と言える。
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『屋根の上の醜男どもは、それを取り巻いている浴衣姿の乙女らを意識しつつ、その恋心を掻き立てようとして、いよいよ叫喚になるのである。』
(解説)↓↓↓↓
そう、僕でも若い頃にその経験がある。
だんじりの屋根に限らず、囃子にせよ梃子にせよ舵取りにせよ、だんじり祭に参加している自分の姿を、意中の女の子に見せたいと思うのは男の性(さが)である。

それが屋根となれば、だんじり祭の花形であり、男として一番の見せ場であろう。

大阪市内や河内のだんじりに、泉州のような『大工方』という役職は本来ない。
しかしそれでも、屋根は誰もが乗れるものではなく、ある程度選ばれた者しか乗る事は出来ない。
そんな屋根に乗る事が叶った若衆は、その千載一遇のチャンスを、好きな女の子に見せつける事が出来なければ勿体ないのである。

だんじりに対する専門的な知識を持たない司馬遼太郎が、パッと見てそれを言い当て、つぶさに文章に書き起こしているあたり、やはり作家の嗅覚なのだと思う。
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『『えらい醜っとりまっしゃろ?』
と、群衆の中で、M君が私に言った。
河内国の古い村では、そういう古語が、今なお日常語として生きているのである。』
(解説)↓↓↓↓
現代でも、たしかに河内の地域ではだんじりを練り回したり、差し上げてしゃくったりする事を
『しこる』
と表現する事がある。
『古語』が日常語として生きている・・・というのは、昭和を飛び越え、平成から令和へと移り変わろうとしている現代でも、脈々と受け継がれているのは確かな事なのである。

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さぁ、如何でしたか?
大変長くなりましたが、書き連ねられている文章をひとつひとつ読み解いてゆくと、様々な風景が見えてきて、またそこから筆者の心情を読み取るのも面白いと思います。
またこんな風に、かつての文豪が書き残しただんじり祭に関する技術を読み解いてみたいと思うのですが・・・
それはまた・・・別の、話。
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