茶屋のだんぢり漫遊録

目次

大正東のお披露目曳行の写真から思う





前回、城東区は諏訪のだんじり新調の話題をお届けしましたので、それでは!…って事で、今回は諏訪から嫁いだだんじりの話題をお届けしましょうかね。

こちら。



柏原市大正東のだんじり

令和元年5月6日(月祝)に入魂式ならびにお披露目曳行が行われました。




こちら大正東が諏訪のだんじりを購入する話題は過去のブログでも取り上げてきました。

当サイトの大正東のだんじり紹介ページに過去のブログもリンクを貼ってありますので、またご参考にして下さい。

なので、諏訪から嫁いだこのだんじりの製作年や工匠、また大正東に至るまでの経緯などの話題とは、ちょっと違うお話をして行きましょうかね。



とはいえ、触れずには話を進められないこのだんじりの製作年は慶応年間

すなわち1865年~1869年までの期間に製作された幕末のだんじりなのですが、平成2年に《吉為工務店》で行われた大改修にて、彫物以外の部材を新調して、現在に至っています。



その現在も残るのが見送り三枚板の彫物なのですが、いわゆる『火燈窓』なのであります。



この形式を残すだんじりと言うと、ワタクシなどがパッと思い浮かべるのは尼崎市の中在家、北出、小嶋のだんじりで、モチロン他にもあるのですが、共通するのはいずれも幕末期、いわゆる江戸時代に製作されただんじりと言う事なのであります。

では、明治時代に入ってからこうした見送りが『火燈窓式』のだんじりが製作されていないかと言えば、今すぐ是非を論じる事は出来ないにしても、極めて稀であろう事は言えると思います。



ちなみに、土呂幕の観音開きの部分や中柱の間仕切り等に『火燈窓』を用いているだんじりは、明治以降も多々あります。


そもそも『火燈窓』とは、社寺建築、城郭建築において古くから用いられてきたもので、窓枠の形状が『炎の形』をしているので『火燈窓』と呼び、決してこの窓枠の中でロウソクに火を灯す訳ではないのですな。


↑社寺建築に見られる『火燈窓』

ちなみに、石山寺の『源氏の間』に見られる事から『源氏窓』とも呼ぶんだそうです。


↑石山寺の『源氏窓』
※調べてビックリ。ここでの『源氏』とは源平合戦の源氏ではなく、紫式部が『源氏物語』を執筆した書斎の事だった…



現在の曳き回す『だんじり』は元々、お囃子や芸能を乗せて移動するためのものが進化したものなので、江戸時代中期の元禄時代に、いわゆる『神賑わい』としての『だんじり』が盛んになった頃のだんじりは、彫刻による装飾はそれほど華美ではなかったはず。

それが江戸時代後半から末期にかけて、だんじり本体の装飾が豪華になる過程で、彫物の部材に費用をかけ、それが町の自慢にもなってゆく時代に、この『火燈窓』という社寺建築の様式の一部をだんじりに取り入れるという工夫が用いられたのでしょう。



しかし、この『火燈窓』のだんじりがあまり普及しなかったのは、部材をすべて彫物で埋め尽くした『三枚板』形式のだんじりが、より好まれたからではないでしょうか?

それ故、明治以降のだんじりに『火燈窓』があまり見られなくなり、完全な『三枚板式』のだんじりが量産されていったのではないでしょうね?・・・



まぁ、あくまで推察の話ではありますが、いずれにせよ、見送りが『火燈窓』式のだんじりを見かけたら、それはかなりの年代物のだんじりである・・・という事は、言えると思います。

いずれにせよ、新調された諏訪のだんじりも『火燈窓』の形式は継承しなかったので、ますますこの形式を残すだんじりは貴重な存在となっています。


それと、大正東のだんじりに見られる、もうひとつ目に付いたのが、見送り正面に施されている、名前は知らないこの三角形に編まれた『網』。



中央の装飾品は『寶(たから)』とか『護り』とか呼ばれているもので、これは特に大阪市内やその周辺の地域のだんじりにとっては大切なものなのですが、それを固定するための、この白の晒しで編まれた網の名前は、僕がこれまで色んな詳しい人に会うたびに訊いても、分からないのです。



誰も名前を知ってる人が居ない。

便宜上、『寶編み』とでも表現しときましょかね?

この三角形の『寶編み』は、ここ大正東で施されたものではなく、諏訪で編まれていた時のままの形をしてますので、おそらくほどいてないんでしょうね。



今現在、大阪市内やその周辺の地域でも、この『寶編み』を施しているだんじりは数少なくなりました

見送りが幕式のだんじりの場合、この『寶編み』がよく映えます。

しかし、三枚板式のだんじりの見送りにこの『寶編み』が施されていると、彫物がよく見えないですよね?



そのために、この『寶編み』をせずに、『寶』だけをどこかに付けるだんじりが急増しまして、今やこの『寶編み』を施すだんじりも、絶滅危惧種になりつつあるんですな。



もし、このブログの読者の方で、この『寶編み(仮)』の名前について、ご存知の方、もしくは
『正式かどうか知らんけど、ウチの村ではこう呼んでたで』
という方が居られましたら、一度ご教示願いたいと思います。


大正東は、これまで『彫忠』製のだんじりで祭礼を続け、諏訪の先代だんじりを購入した今年、新たな歴史を刻んでゆきます



そしてそのだんじりには、歴史的に貴重な要素が含まれている事が非常に面白く、また注目すべき点であると思います。

特に見送りの『寶編み』などは、一度ほどいたら次はもう編めないかも知れません。

しかし、できる限りこうした貴重な意匠を残してもらえればと願うばかりです。




皆さんも、各地のだんじりを見学に出かけられた時には、こうした貴重な要素にも注目してご覧になられるのも、良いかも知れません。




大正東の皆さん、この度はだんじり購入、おめでとうございます。


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