茶屋のだんぢり漫遊録

目次

水に漂う・・・・

えぶりばぁでぃ~、毎度ぉ~、だん馬鹿っす!

5月に入り、連日の真夏を思わせる様な天気に少々グロッキー気味のだん馬鹿でおます。

さて、今日の「だんじり通信」は『船だんじり』について書いてみようと思います。

去る4月26日(日)、南河内郡太子町 後屋の『船型』地車の修理が完成し入魂式・御披露目曳行おこなわれました。
ユーザーの皆さんの中にも見に行かれた方もいるのでは・・・・?
我が地車総合ケータイサイト『だんじり』取材班も、あいにくの天候にもかかわらず、その模様を撮影してきております。
「入魂式・イベント特集」のフォトギャラリーは本日アップしておりますが、ムービーは近日中に紹介する予定ですのでもうしばらくお待ち下さいねぇ~!

後屋の入魂式の写真を見る

その後屋の船だんじりは、江戸末期に製作されたと云われていますが、製作年・製作大工は不明。彫物は堺《彫又》の手によるものと思われますが確証はなし。

船1

台木の上に和船(木造の船)を載せ、南河内地域で見られる『石川型地車(俄だんじり)』の様な屋形を乗せた地車です。屋形細工が『石川型(俄だんじり)』と酷似していることから、新堂(富田林市)の大工組の大工により製作されたとも考察できます。

大阪府下では後屋の他に、隣村の太子町東篠、大阪歴史博物館に展示中の元・大阪市安立町7丁目地車、そして大阪天満宮所蔵の絢爛豪華な御座船型式の山車「天神丸」の4台が現存しているだけ。太子町永田にもあったのだが、残念にも昭和49年に焼失。

全国的に「船型」の練り物は多く存在しているようで、京都祇園祭りに曳き出される『船鉾』は特に有名。
『船型』地車の起源はよくわかっていないようですが、おそらくこの『船鉾』が起源で、江戸期の繪本などに画かれる神功皇后が三韓を征伐し日本に帰って来た際に乗っていた船を模したものだと、私なりに考えているのですが・・・・?

さてさて、『船だんじり』は曳き物の一つではあるのですが、なんと実際に川に浮かぶ『船だんじり』も存在しているのです。
このゴールデンウィーク中の5月5日(祝)に兵庫県尼崎市でおこなわれた「JC尼崎青年会議所50周年イベント」で実際に同市を流れる庄下川の玉江橋から開明橋の間を曳行ならぬ「えい航」されました。

船2

この正真正銘の『船だんじり』は同市貴布祢神社氏子の中在家のもの。 
貴布祢神社の夏祭りでは、約300年前の江戸の昔から『川渡御』がおこなわれていました。
最盛期の宝暦年間(1760)には、中在家だけで東一・西上一・西一・濱二・東三・西三・濱四・東四・濱五の9艘の船だんじりが漕ぎ出されて、さながら大阪天神祭りの「川渡御」に負けず劣らずの賑わいを見せていたとか・・・・。
しかし、戦時下の昭和15年(1940年)ごろに中断。平成元年に同青年会議所が30周年記念で復活させて以来、催しなどで実施されています。

その5月5日、私「だん馬鹿」も平成17年の中在家の「船だんじり蔵」新築の時以来、4年振りにこの船だんじりに乗船してきました。
あいにくの雨模様にもかかわらず、乗船待ちの行列が出来るほどでした。

船3

往古の姿がどのようなものであったのかはわかりませんが、現在は鉄製の台船の上に「だんじり」同様の屋形が組み上げられており、彫物も我々が「陸」で見ているのと同じ。まさに、川面に浮かぶ「だんじり」なのです。
訪れたのは夕刻で、川面に映る提灯の灯が幻想的でした。

船4


はてさて、お気づきの方もおられるとは思いますが、当サイト「各町の地車」の姿写真の追加・差し替えを久しぶりにおこなっております。
更新したのは以下の町です!
 
  
○和泉市黒鳥・伯太地区 郷小路(化粧付)
○堺市深井地区 深井中町(化粧無し)
○堺市深井地区 深井東町(化粧付)
○堺市深井地区 深井畑山町(化粧付)
○堺市草部地区 馬場(化粧無し)
○堺市津久野地区 神野町(化粧無し)
○堺市菱木地区 菱木奥(化粧無し)
○堺市鳳地区 上(化粧付)
○堺市鳳地区 上(化粧無し)
信濃屋お半だんじり通信
<<前の記事 次の記事>>