あのだんじりが、生まれ変わってこうなって・・・

暑かった今年の『岸和田だんじり祭』も終わり、それ以外の各地の9月祭礼も終わり、9月後半に行われる試験曳きも終わりまして、今週末は堺市内の秋祭本番です。

残暑が長く厳しかった今年の9月も終わり、10月に入りました。
ようやく季節が前に進み始めて、朝晩の涼しさが心地よい気候となりましたが、昼間の暑さはまた真夏の名残りを引きずってますね~。
さて、そんな『秋のだんじりシーズン』もこれから本番を迎えようとしておりますが、ブログの方は相変わらずのマイペースでお届けして参ります。
7月14日(日)・・・
大阪市内やその周辺地域では、夏祭がピークを迎えていたその日・・・
守口市では、1台のだんじりの入魂式ならびにお披露目曳行が行われておりました。
こちら。

八雲神社の氏地にあたる、南十番のだんじりです。
こちらのだんじり、『新調』・・・ではなく、『大改修』というものでもなく・・・
敢えて言うなら、『改作』もしくは『再生』とでも表現した方が良いですかね?
すなわち、複数のだんじりの部材を合わせて、別のだんじりとして生まれ変わらせるというもの。

なので、完全新調・・・というものでもなく、はたまた大改修・・・と呼べるものでもない、そんな珍しいケースで生まれただんじりであります。
過去を紐解けば、そうした例はあります。
南河内は千早赤阪村の中津原のだんじりなどは、そのひとつでしょう。
大昔・・・特に明治期などは、記録に残っていないだけで、そうした形で別のだんじりに生まれ変わるケースは、割と頻繁に行われていたのではないでしょうか?
さてさて、ではこの南十番のだんじりはと言うと?・・・

かつて西淀川区の野里東之町として活躍し、平成21年に北区は中津の有志に売却されただんじりと、東大阪市の深江新家で長年にわたり眠っていただんじりとを合わせて、改作されたものです。

施工大工は平野区の《大市》河合工務店。
ベースは野里東之町の先代だんじりがベースで、大屋根はそのまま使い、台木や柱などの部材は新調されていますが、寸法取りは野里東之町の当時のまま再現されています。

つまり、背格好は野里東之町の先代だんじりのシルエットになります。
そこへ深江新家の三枚板の彫物が加わり、これで2台のだんじりの部材が合わさりました。

それ以外の彫物は新調交換されました。
彫物は《井波彫刻》の野原湛水、福井県の新野佑一 、《木彫 森下》森下哲也の各師により製作されました。
獅噛みは野原師の作品。

平面の土呂幕ならびに前後の懸魚、前面の車板などは新野師。

前後の土呂幕および後面の車板は森下師。

特にこの後面の土呂幕はワタクシ個人のお気に入り。
虹梁、ならびに脇障子は野里東之町の先代からそのまま使用。

こうして生まれ変わった南十番のだんじりは6月29日(土)に河合工務店を巣立ち、当地へと搬入されました。

大きく生まれ変わっただんじりですが、その姿見は、やはり野里東之町の先代の面影が残っています。

7月7日(日)は、正式なお披露目を前に地域をあげての試し曳き。

南十番では先代だんじりが『北河内型』で、曳行方法も北河内式の曳き方をしていました。
それを今回、『大阪型』のだんじりに変更したことで、曳行スタイルも大阪式の曳き方に変えました。

もとよりお囃子はいわゆる『大阪系ヂキヂンコンコン』(天神囃子風)のお囃子をかねてから導入しており、そのスタイルは年数を経て変化の途上でありましたので、これを機により『大阪式』の曳行に大きく舵を切った事になります。
そして迎えた7月14日(日)は、朝から入魂式。
町内からお囃子ナシで八雲神社へと運び込まれただんじりは、拝殿に向けて据え置かれました。

今年の夏は梅雨入りが遅く、7月に入ってからも連日の雨模様で、前日も1日を通してマ雨降りでした。
この日も朝から怪しい雲行き・・・
午前10時より始まった入魂式ならびに記念式典には、守口市各町の地車関係者に加えて、野里東之町の方々も招かれ、かつての我が町のだんじり生まれ変わったの姿に見入っておられました。

『あ、これは元々ウチの部材や!』
虹梁や脇障子を見て、そう声を上げる方もあり、やっぱり長年にわたり愛しただんじりの事は、いつまで経っても忘れないものなのですなぁ。
入魂式ならびに記念式典を終え、神社から出たところには、北十番のだんじりがお出迎え。

地元の町内に戻り、お昼を挟んでからの午後はお披露目曳行となりましたが、夕方頃からお天気は再び雨模様に。

それでも夜8時頃まで、町内をお披露目して廻りました。

このだんじりが南十番の新しいだんじりとして、小さなの人達の絆を結ぶ宝物として、末永く大切にされ、曳行される事を願います。

南十番の皆さん、この度は誠におめでとうございます。
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