幕末だんじりの宝庫やからなぁ・・・

今日も今日とて去年の写真の整理をしながら、過去ネタを漁る日々であります。
もうかれこれ1年になるのかぁ・・・と発見したのが、こちら。

四條畷市の岡山のだんじり。
日付を見ると昨年の3月24日(日)と言いますから、
堺市の大仙公園では『前田暁彦展』が行われていた日でございますな。
毛穴町、長承寺、津久野の大東のだんじりが展示され、多くのだんじりファンが詰めかけて賑わっていたその日、ワテは朝からこちらにお邪魔しておりました。

四條畷市の北側の丘陵地に位置する 『忍陵神社』。
『にんりょう神社』とも『しのぶがおか神社』とも読むそうですが、つまりJR学研都市線『忍ヶ丘駅』の駅名の由来でしょ?・・・て事は容易に察しがつく訳であります。

この神社の境内奥に、岡山のだんじり小屋があります。
まずはだんじりのお姿。

小屋にはだんじりの頭から収納してあるので、これは後ろ姿。
そして車輪(コマ)は抜いてあるので、正面からのお姿は拝む事が出来ません。

こちらのだんじり、天保9年の作で大工は讃良郡中之村(中野村)の大工《権兵衛》となっており、彫師は《服部》一門とされておるのですが、平成29年に《大下工務店》により大改修を行い、ご覧の通り古い部材と新しい部材が混在している状態になっております。

ちなみに改修彫師は《辰美工芸》です。

ご覧頂ければ一目瞭然、大屋根・小屋根、通し柱、勾欄、台木を新調交換されてまして、かなり根本的な大改修がされた模様。
獅噛みは尼崎の築地本一のものと似ております。

この小屋根の車板は元からのもので、『北河内型』の定番と言える『親子獅子』なのですが、親と子の配置が、よくある構図とくらべて左右逆に配置されてます。

親獅子が左に配置されている構図が圧倒的に多いはず。
とは言え、このだんじりは天保9年の作。

で、『北河内型』のだんじりにはこれより古いものもあるし、モチロンこれより後に製作されたものも山ほどあり、どっちが元祖とかどっちが正しいとかもないと思うのですが、珍しい配置って事だけは言えるでしょうな。

で・・・!
この日お邪魔させて頂いたのは、この平成29年の大改修の時に、交換された古い彫物を見学させて頂けると聞きまして、ほんで馳せ参じさせて頂いたのであります。
今回ご紹介できるのは、それらの中のほんの一部ではありますが、皆さまにご覧頂きましょう。
こちら、大屋根正面の獅噛み。

この彫物だけ、《相野伊兵衛》の作らしいのです。
主後や小屋根の獅噛みと比べれば、輪郭や耳や顔つきが違うでしょ?


特に口元の丸みなどは《相野》の特徴かなぁ?・・・とか思ったりもしますが、他の《相野》作品に比べたらまた違う様にも思えるし、またこれが新調当時に彫られたものか、後から交換されたものかもハッキリしません。
《相野伊兵衛》を名乗った彫師は初代から四代目まで存在し、中でもだんじり彫刻にその名を残す初代・伊兵衛は天保時代から明治にかけて活躍している彫師ですが、作事した年代を特定するのは困難であります。
大屋根車板。

不勉強で申し訳ないのですが、ワタクシはこれを見ただけで『はい、服部ね』と言い当てる事は不可能であります。
そこまでの眼力はナシ。

ただ、大好きな顔つきであり、『上地車』の大屋根車板でこの構図の龍は無数にあり、《彫清》や《相野》にも似通った作品は山の様に存在しています。
脇障子左右『鯉の滝登り』。

右側の方が鯉に彩色がされていて、おそらく地元の人によって成されたものと思われ、明らかにマダラ模様に塗った形跡があり、より鯉のイメージをリアルにしようとした意図が伺えるんですよね。
右が上手くいったら左も彩色される予定だったんでしょうか?
左側の鯉には彩色がされていません。
おそらく大屋根の懸魚一式。

正面・拝懸魚の朱雀は、首が欠損しています。

左右の隣懸魚は、限界をとどめていますね。
こちらは小屋根の拝懸魚。

欠損しているのはおそらく猿でしょう。
天保時代の古参だんじりだけに、長らく修復を経験しなければ、それなりに損傷は増してゆきます。
特にここ北河内は、幕末に製作されただんじりの宝庫ですから、まだまだお目にかかりたいだんじりは山ほどあります。
平成29年の大改修で、その生命を長らえる事を得た岡山のだんじり、そして交換された古い彫物も併せて、これからも末永く大切にされる事を願っております。
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