コロナ前の見学会

ねぇ・・・まさかこんな事になるなんてねぇ・・・
あの頃は、思いもしなかったなぁ。
そんな頃のお話。
今年の2月9日(日)・・・

東大阪市の松原のだんじりを、見学させて頂きました。
以前にも当ブログにて、松原のだんじりについては触れています。
詳しくは当サイトの『だんじり紹介ページ』から東大阪市は《英田》のところに飛んで頂き、松原のページを参照して下さい。

ご覧の通り、『北河内型(讃良型)』の巨大なだんじり。
以前のブログでは撮影班からもたらされたお写真だけでブログを執筆したので、今回は『上地車新報社』さまのご好意によりお招き頂き、晴れてこの目で拝ませて頂く機会が実現いたしました。
大阪府の東部は『河内地方』と呼ばれてまして、南北に長いので『北河内』『中河内』『南河内』と呼ばれている事はご承知の通り。
その境界線となるのは明確ではないのですが、一応、寝屋川を境に(ここで言う寝屋川とは寝屋川市ではなく、川の名称としての寝屋川ね)北河内と中河内が分かれている様で、中河内と南河内を分けているのは大和川という事になります。
但し、この分け方も現在の川の位置があってのことなので、かつての昔、大和川がいくつもの支流に分かれていた頃は、それこそ北や中や南という分け方の概念はなかったのかも知れません。
つまり、北河内・中河内・南河内という呼び名は便宜上の呼び名であるという事を、ちょっと頭の隅にでも置いといて下さい。
それを踏まえてお話してゆくのですが、北河内と南河内に於いて、こと『だんじり文化』という観点で見るなら、その違いは割と明確であります。

大東市・四條畷市をはじめとした『北河内』と呼ばれる地域には、『北河内型』と呼ばれる巨大なだんじりが群生しています。
また富田林市や河南町、千早赤阪村といった『南河内』と呼ばれる地域には、『石川型』別名『俄だんじり』と呼ばれる形状のだんじりが無数に存在し、いわゆる『曳き唄』を唄いながら曳く形式の曳行が行われています。

そうした明確な色分けがされる河内地方の『だんじり文化』の中で、さて『中河内』の色は?・・・と言われると、これが明確な色分けの困難な地域なんですよね。
現在『中河内』と呼ばれる地域は、東大阪市と八尾市の全域と、柏原市の大和川より北側地域、大東市の寝屋川より南側地域、さらに大阪市の東側の一部も『中河内』に含まれています。
その様な地域であるので、『だんじり文化』も単一ではなく、さまざまな様式が混在しているのであります。

↑本来の中河内のだんじり曳きは若江が見本だとも言われているが・・・
中河内の中央である東大阪市も、かつては3つの市が合併して成立した市であるので、その文化圏もそれぞれに違っているし、また混在もしているのです。
今回お邪魔した松原という地域は、かつては中河内郡・英田(あかた)村のひとつであり、暗越(くらがりごえ)奈良街道の宿場町でありました。

旧・河内市に含まれる地域ですが、松原の氏神は『河内一之宮』として名高い枚岡神社であり、そんな英田村の祭礼はと言うと、だんじりよりも太鼓台(布団太鼓)を保有している町が多いです。
しかしここ松原では、古くからだんじりによる祭礼が行われていた様であります。
以前のブログでも触れていますが、ここ松原は現だんじりの先代も太鼓台ではなくだんじりであり、しかも現在と同じく『北河内型』のだんじりを保有していました。

幕末の安政年間に日下村の枝郷にあたる池之端が新調したものを購入し、昭和51年まで曳行。
その先代だんじりを解体し、彫物の一部を四天王寺の『梶内だんぢりや』に下取ってもらい、昭和52年に梶内より購入したのが現だんじり。

その現だんじりは先代の『安政年間』よりさらに古い時代の『天保年間』に製作されただんじりで、現在の四條畷にあたる上田原が新調。

それが東大阪市の布市へ売却され、布市が太鼓台購入のために《梶内》へと下取ってもらったものを松原が購入しました。

この獅噛みの様式を見ると、その古さが一目瞭然です。
おそらく屋形などは製作当時のまま?
ほぼ原型をとどめた姿となっていて、とても貴重であります。

大工は不詳ですが、おそらく『讃良郡』に居住していた大工によるものだと推察。
彫師も不詳なのですが、《小松》一門の手によるものではないかという看立てが有力。

この大屋根車板の龍などを見ると、うん、そんな感じがするのですが・・・
このだんじりの彫物の中で、最も見応えのあるのがこちら。

小屋根の車板、親子獅子。
『北河内型(讃良型)』のだんじりの多くは、大屋根の車板が龍で、小屋根の車板が獅子という構成になっています。
北河内型のだんじりの彫物に関わっている彫師は主に《小松》《相野》《彫清》《服部》などの一門が多数なのですが、あまりそれらの系譜を問わず、多くの北河内型のだんじりが似たような図柄の構成になっています。
それらの中でも、この小屋根の車板は一種独特で秀逸。
特に顔の感じは特徴的で、目を見張ります。

角度を変えて何枚も写真に収めてしまう。
そう、角度を変えてみると、親獅子の表情が変わるんですよ。
こういう彫物には、えも言われぬ魅力を感じてしまって、つい見入ってしまいますね。
こちらの脇障子などは、おそらく新調当時から変わらぬ部材と思われます。

昭和52年に松原が購入するまでの間、《梶内》にて保管された時期に、あれこれと部材が交換?・・・いや追加?…されている様に見受けられます。
実はこのだんじり、昭和12年の3月に住吉の《大佐》にて大修理が行われてるんですよね。

上田原にあった時代でしょうな。
細工人は《大佐》十三代目にあたる川崎佐太郎。
隆盛を極めた明治の前半から時代を越えて、昭和初期の《大佐》の活動を知る貴重な資料と言えましょう。
さてその昭和の《大佐》による大修理の痕跡はないかと見てみると・・・

こちら中柱の木鼻の上に乗っているこの部材は、なんかそんな感じがしなくもない。
こちらの土呂幕も、そうなんかなぁ?・・・などと思いながら見てるのは楽しい。

モチロン確証がある訳ではないので、あくまで推察の域を出ないのでありますが。
確たる記録が残されていないからこそ、あれこれ推察しては、この日集まった人たちと意見を交わしてみるという面白さもある訳でね・・・
文章として書き起こすのに半年以上を費やしてしまいましたが、とても貴重な機会を作って頂き、松原自治会の皆さま、そして上地車新報社さまには感謝を申し上げます。

コロナ禍ですっかりこんな機会も鳴りを潜めてしまいましてね、今年はこうしただんじり見学の機会もありませんでした。

来年は今よりもう少しで良いから人と人が密になっても大丈夫な状況になったら良いのにな・・・て、心から願うばかりです。
今回はまだ真冬だった頃のお話を振り返ってみました。
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