名工 左ヱ門の名地車、地元を去る
明治時代、地元忠岡にて和泉彫りの名工、左ヱ門こと櫻井義國が存在しました。
先の並松町の記事でも触れましたが、地車の製作には多くの職人さんが携わり、中でも大工と彫物師は担当部位が異なります。
墨を引き、木取りをし、彫刻部位を彫物師へ任せ、本体を組むのが大工仕事。
彫刻を刻むのが彫物師の役目。
そんな中、この名工は唯一地車大工と彫刻をこなした正に泉州きっての名工。
明治から大正にかけて多くの地車を製作し、忠岡の地車四台全てが左ヱ門、又はその弟子が手掛けられた地車でありました。

さて、忠岡町生之町(生帰)の地車は、
大正四年に岸和田市本町にて大工が岸和田の名工、絹屋こと絹井楠次郎
彫物師がこれまた岸和田と忠岡にも居を構えた玉井行陽、そして左ヱ門こと櫻井義國の名地車。
昭和二年に生帰が買い受け、その理由は様々な謂れがありますが、どうしても地元の名工の手の入った地車が欲しかったのでは、と私は考えています。
そんな名地車も、長年の曳行による傷みや町民の念願である新調地車を望む声により、三月二十八日にお別れ曳行を行いました。
これにて、左ヱ門の地元から最期の左ヱ門作の地車が去る事になります。
さて、今回はお別れ曳行ではなく、この地車本体のお話し。
地車の製作された時節柄、愛国心たっぷりの彫刻が彩ります。
写真はそれぞれ
正面枡合、大正天皇御即位大礼

木鼻、旭日旗

木鼻、萬歳(万歳)

見送り、左ヱ門作の馬乗り

私のTwitterや先のブログをご覧になって頂いている皆様はお気づきかと思いますが、私は大変な愛国者であります。
日本を愛し、そして日本人の伝統文化を守り伝え、更に地元の伝統工芸である和泉彫りと地元の名工の技が結集し、それらの想いが地車彫刻にも刻まれた、これぞ本当の意味での名地車ではないのでしょうか。

先人の技と心意気、そして引退した生帰地車へ感謝し、今回の筆を置きたいと思います。
なお、生帰の新調地車は、現在植山工務店と木彫高濱の両師によって、絶賛製作中!
九月には新調地車とのご対面が楽しみです。
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