天満産まれの地車~壱~
先の記事では天満市場地車に焦点を絞って書きましたが、もう一つのポイント
240年前の安政9年(1780)近隣の村々や遠く別の氏地からも大阪天満宮へ84台の地車が夜を徹して、宮入りしたとの記録が資料にも記されています。
そんな数の地車どこ行ったん?
残念ながら大半が焼失したのは先のblogで述べたとおり。
しかしながら、何と今でも確実にこの天満宮へやって来たとされる地車が、各地に現存しております!
その代表格がこちら
守口市下嶋の地車

嘉永5年(1852)以前に製作されたと考察される、見るからに古風な天満形式の大阪型で、大工彫物師共に不詳。
彫物は、浪花彫刻で心当たりはあるが確証はありません。
多くの方が獅噛み=上地車と認識するその獅噛みが無いのはご覧の通り。

これには2通りの解釈があり、元々本来は鬼板であった。
いや、別の派生で昔から鬼板と獅噛みの2通りの地車があった。
などと解釈されていますが、ここでは深堀りはやめておきます。
ちなみにこの地車の出身地は、現在の大阪市中央区平野町
今の北浜のど真ん中
大正時代に下嶋が購入されたそうです。

え?あんなビジネス街になんで地車あるん??
はい、先のblogでもお伝えした通り、当時はそもそも大阪の多くは講を組織し、その身内や仲間内で地車を運営しておりました。
又は、大きな商店いわゆる大店(おおたな)でも地車を所有し、丁稚奉公や従業員に地車を曳かせていたと伝わります。
当時の心斎橋や北浜辺りは、今の各百貨店の前身なんかも多く集まる大店街。

地車好きの皆さん、例えば入社した会社に地車があり、祭礼日に仕事の一環として地車を曳けたらどうですか?
正に我々にとってはパラダイスですよね?笑
今でも大阪では、ほぼ身内関係で地車を運営したり、村や自治会とは運営が無関係の祭礼組織が多いのは、そんな名残もあるかもしれません。

さて、まだまだあるぞ!
他地域へ残る天満形式の貴重な地車のご紹介は、次の記事で。
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