お待ちかね、大和高田市奥田のだんじり・・・・
まいどぉ~、だん馬鹿っす!
あいにくの天候の為、日食は見れずじまい。次回の日食まで、生きているのやら・・・・? 少々残念な気もしますが、沖縄・奄美方面まで出向き「皆既日食」を見にいった人には、「ざまぁ~みやがれ、ケッケッケェ~!」ってな感じのだん馬鹿でおます。
さて今日の「だんじり通信」は、前回・前々回でも予告しましたとおり、大和高田市奥田の地車について書くことにしましょう!
奥田の地車は、例年7月7日の七夕の日に同所でおこなわれる『奥田の蓮取り行事』に合わせて曳行されています。
この「蓮取り行事」は、奈良県の無形民俗文化財に指定(2004年)されているもので、役行者(えんのぎょうじや)の母・刀良売(とらめ)にまつわる「一つ目蛙」の伝承と、吉野山金峯山寺の「蓮華会(れんげえ)」に深いかかわりを持つもので、約1300年の歴史をもち、その「蓮華会」に献じられる蓮の花を奥田の捨篠池から、蓮取り舟に乗って摘み取るもの。毎年、多くの観光客で賑わっています。

当日、その行事に花を添えるべく曳き出されているのが、奥田の地車。
前日からの雨は上がってはいましたが、空は今にも泣き出しそう


「せっかく来たのにぃ~」と思いながらも、夕刻からの曳行はビデオと写真に収めねばならず・・・・。雨さえ降らなければ、曳行前にはシートも外され、彫物の写真も撮れるだろぉ~と思いながら、時間つぶしを考えていると、知人のN氏とK氏に遭遇。
思いは同じ、とりあえず奥田周辺を散策することに。途中から、日頃からお世話になっている『映像クラブ 御祭礼』の面々とも合流し、怪しい探険は夕刻まで続いたのであります。

その後、天気も持ち直し、5時すぎに奥田へ戻った時には巨大シートも外されていました。さっそく、彫物撮影を開始。

一同、獲物に群がるハイエナのような状態と化していました(私もその中の一人ですが・・・・笑)。
さて、奥田の地車は、腰回りに8本の柱を配した『堺型』地車(堺周辺では「箱だんじり」と呼ばれていたタイプ)。
製作年は不明ですが、製作大工は《住吉大佐》とされています。これは柱に「細工人住吉大佐」と刻まれているからで、地車を研究する上での貴重な資料である『大佐地車請取帳』の明治20年頃の頁にも「大和国高市郡奥田村 枩本与平様 枩本弥三郎様」と記されています。
また、大正期の頁にも「高市郡 天満村字奥田 吉岡善之助様」とも記載されています。
地車の形態から推測すれば、江戸末期から明治初期に堺の地車大工の手により製作された可能性もあり、明治20年頃から《住吉大佐》で製作された地車の多くが、河内長野市三日市地区喜多町や東大阪市森河内新地のようなタイプであることから考えると、《大佐》の手により改修されているのかも知れません?

彫物もこのタイプの地車にしては豪華で、用材もそう古くはないように感じられます。屋形や彫物もその時に取り替えられている可能性もありますが、あえて施主の奥田からの注文でこの形態(堺型)の地車が製作されたのかも知れません。

彫物図柄は、見送り三枚板に「飛龍退治」、「鷲退治」、「加藤清正の虎退治」。土呂幕は「平知盛の最後」など『源平合戦』からの題材で統一されています。彫物師は、どこかで見たようなノミ跡なのですが、一応「不明」ということにしておきましょう・・・・。
6時半を過ぎた頃、ようやく村中の人々が集まりだし、程なく曳行開始。休憩を挟みながら、独特のだんじり囃子に合わせて、田園風景の広がる村中を曳行。

10年ぐらい前に初めて訪れた頃は、午前中に地元の幼稚園児らを中心に1時間程度の曳行。しかし、近年は子供たちの曳行は無くなり、もっぱら、30代後半より上の村民だけで夜だけの曳行。せっかくの地車曳行なのに、綱を持つ子供や若者の姿の無いことを懸念しながら、奥田の地を後にしました・・・・。
いつの日か、笑顔あふれる子供らの姿が見られることを願いながら・・・・。
祭礼ムービーや写真は、近日配信予定!
乞う御期待!!
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